2014年3月19日水曜日

「小さく書いていくことで露になる活字の群れそのもの或いはその生産過程を体験していく自分自身について(1)」



ある作家に対して痛く感激し、触発されるようにして書き溜めた日記(2013528日のもの)の文章を意味の通るように多少修正し、投稿します。先に投稿した実際の文字そのものが、文の内容そのものにも密に関わっています。後半は後日。


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ロベルト・ヴァルザー(Robert Walser, 1878-1956)というスイス人は、自身を独白することへの羞恥に一生涯囚われ乍らも、文字を書くという行為に依ることは諦めず、結果正常な形では全く筆を取れない人間であった。おそらくは語るべき内容を彼は無数に所有していた。告白と創作への欲求に強烈に駆られていた。しかしそれに対する黙秘の意識や恥じらいが先立ち、彼はバランスを欠いた状態で内面に大きな矛盾を抱え込んでいたのだろう。

microscriptsMikrogrammeという彼が編み出した鉛筆による超微小文字の草稿に出会ったのは先週の話だが、彼はこの誰にも解読できない方法によってのみ「書くこと」を再開することができた。23ミリの小さな糸のようなインクのしみは、まさしく私自身が呪物的(fetisch)に異常に共鳴し、興奮してしまうような文字、ことばの破片であり、見られたくも語りたくもないことに対する創作の熱をしかし密かにどこかで発散させたいと願っている、相反する、分裂した自分の思いと見事に重なるものがあった。ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin, 1892-1940)が「もう一人の」小文字書きであったという事実は、彼が独自に抱えていた思想の形成そのものの特徴を直接方向付けるものでもあり、彼のアーカイヴに見られるドイツ語によるメモ書きはまさしく絶え間なく降り注ぐ「活字の吹雪(Gestöber der Lettern)」を思わせるに相応しい。文字はこのような方法で書かれるとるとき、微細な塵のように群を成し襲いかかってくるようなものとしてその本来の正体を露にする。

ヴァルザーもベンヤミンも、今私が、ここまで小さな文字をしかも日本語という別の言語で、自身の筆跡に感化され小文字を書き出していることを知ったらどう思うだろうか。「書く」という動作は、その瞬間においては身体的に動きのある出来事であり、ことばが液化してまさにペン先からほとばしっている(まさに今この)現場は、副次的な処理過程では全くなく、とても不可解で驚くべき活動として捉えられるべきである。そしてまたこの「剥片(はくへん/Flocke)は、果たして書かれるために書かれるだけでなく、読まれるためにも書かれているものなのだろうかという疑念が、今まさにこの「書く」という行為を通して自分自身に生じている。小さなシミとして何ふりかまわず自分の着想をなぐり書いておくこと。力みも生じず、気負うものもなく誰のことも気にせずに書くこと。否、ここまで尽くしても自分はこの胸のヒメゴトをまだ語ることはできない。ヴァルザーと彼の偉業を知ったとき、彼ほどこうした感情の動きについて究極的な所まで突き詰め切った人はいないのではないかと予感した。


文字をペンによって書く、という行為は今やとても衰退してきていて、——これに関しては、文字を早く「打つ」達人という形なり、なにか別の形によって人間はその未開の能力をいつでも垣間見せ得るという点で必ずしも自分は悲観的なだけではないにしても――サルトルが本の中でインクのシミにむきだしの実存が見出されるのだといくら読み手に語ったとしても、これからは彼のこの驚嘆はどこまで読者にとって切実に「不気味なもの(unheimlich)」として響くのだろうか。

つづく

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