2014年3月19日水曜日

覚書

ドイツ語による命題群: A1,A2,....An

命題群の連関によって形成される全体の文章 : ∪[1_n] Ai = G (命題群Aの和集合)


日本語による命題群: B1,B2,...Bm
命題群の連関によって形成される日本語全体の文章: ∪[1_m] Bk = J (命題群Bの和集合)

本来"語られるべき思想の本質"は、G ∩ J (GとJの積集合) の形として現れるのではないのか?
(というか原理的には、G∩Jにしか到達し得ないよね。日本語話者の僕らは)

さらに、

G,Jに含まれる各要素間のミクロな齟齬(統語的齟齬)
は生じたとしても、その集合たるGとJの間のマクロな齟齬(意味論的齟齬)
は最終的には起き得ないように思う。

δが統計的に有意になるサンプルの数だとするならば、
n,m < δ以下の場合(サンプルが有意な数よりも少ない場合)、確かに上記のようなGとJの齟齬は起きるかもしれない。

しかし、300ページを超えるような量を持つような文章において、我々は「意味論的齟齬が起きないように」読んでいくのであって、
GとJの齟齬が起きないような(すなわちこれがGとJの積集合)論に、収斂していくのではないか?


ドイツ語の原典にあたり、ドイツ語と日本語の統語的な齟齬を埋めていく作業は、必要で、意味のあることだと思う。
ただしそれは、起きる必要のない、小さな意味論的齟齬を未然に予防するための措置なのであって、
それをしないことによって、全く僕達が彼らの思考に追い付くことができないとは考えない。

こと体系だった思考の集合として存在することを志向する哲学において、言語的な可換性は思想家の望むるところであるはずだし。


数多の爆散を繰り返しながら、それでもこの戦争はいつか終わるはずだ、と彼の人は進む。

本当の戦線は文字と文字のその間隙に。終わることなき戦いに、盲目の信仰を以て臨め。


匿名でやってたブログから転載。無意味な文章かつ有意な数学的構造も持ちあわせていないのであしからず。

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