2015年1月27日火曜日

「勉強しなければいけない範囲について」

 生きる時間は短い。何か大きなことを成し遂げようとするためにはあまりに短い。
 学問、知識、文化は、概念を積み重ねていくことで発展していく、という意味において、その原義から多層的で、総論、各論を持つ。
 知識を得たい、得続けたいという欲求、全知全能であることを希求する、という欲は真っ当なものであるとしても、果たしてその願いは叶うのだろうか。

 私はそうありたいと思っていた。欲が強かった。全ての知識を得たいと、全ての能力を得たいと、本気で思い、アタマでは、「大人になるということは可能性を捨てること」というドグマを理解しながらも、なるべくならその可能性を潰さない方向に、勿体ぶって、生きてきた。
 しかしながら、根本的な自分の能力や、現実的に割くことのできる時間のことを冷静に考えるようになって、その意識に変化が訪れていることを感じる。


 歴史について描く小説家が、歴史家と同じだけの知識量と密度を持っている必要があるだろうか。高度に抽象化された計算機の技術において、現代のアプリケーションエンジニアが、メモリレジスタとCPUの間で行われるエンディアンのやりとりについて理解している必要があるだろうか。
 知識の広がりは、際限がない。物事の因果、意味的繋がりに重きを置き続ければ、対象となるものからいくらでもその存在の意味について遡ることができる。

 知識を得ること、それ自体は面白い。学べば学ぶほどに、「もっと学ばねば」という思いに駆られる。
 一方で、知識をインプットすることそれ自体には、他者の点からの観測においてはなんの意味もなさない。得た知識から、何が出てくるのか。なにに貢献したのか、ということにやはり意味がある。

 まだ始めたばかりで、とても実践できているか怪しいものであるが、そこで僕は最近、「どこまで勉強しなければいけないのか」ということを、今まで以上に意識的に考えるようにした。
 まずはじめに、総論的な視点から、その分野における各論的な学問、知識体系の連関をアタマに描く。そして、勉強すべき範囲を、”解決したい問題に対して最も貢献度が高くなるように”設定する。より具体的には、対象になっている問題が関連する層と同じ層にある別の問題に対して、対象の問題の層より一つ上の層の対象問題を俯瞰できる視点、対象の問題の層にある問題を構成するより低次元の層について関連する問題を2~3個。ぐらいをアタマに叩きこんで行けばいいのではないかと思う。

 学問の道に戻ること、よりエンジニアとして質の高い仕事をしていきたい、という欲求を考えたときに、自分の器質に従ってなんでもかんでも面白そうな知識に頭を突っ込むのは、効率が悪い。


 どこまで実践できるのかどうかはさておき、自分が学ぶべき範囲、という観点に自覚的になり、知識吸収の範囲をメタ的に線を引いて、優先順位をきちんと設けていくことが必要だな、と考える最近である。

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