2015年1月27日火曜日

最近読んだ本、読んでいる本リスト(1月)

1.『あなたのための物語』長谷 敏司

2.『カオスの紡ぐ夢の中で』金子 邦彦

3.『私とは何か--「個人」から「分人」へ--』平野 啓一郎

4.『嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見 一郎, 古賀 史健

「勉強しなければいけない範囲について」

 生きる時間は短い。何か大きなことを成し遂げようとするためにはあまりに短い。
 学問、知識、文化は、概念を積み重ねていくことで発展していく、という意味において、その原義から多層的で、総論、各論を持つ。
 知識を得たい、得続けたいという欲求、全知全能であることを希求する、という欲は真っ当なものであるとしても、果たしてその願いは叶うのだろうか。

 私はそうありたいと思っていた。欲が強かった。全ての知識を得たいと、全ての能力を得たいと、本気で思い、アタマでは、「大人になるということは可能性を捨てること」というドグマを理解しながらも、なるべくならその可能性を潰さない方向に、勿体ぶって、生きてきた。
 しかしながら、根本的な自分の能力や、現実的に割くことのできる時間のことを冷静に考えるようになって、その意識に変化が訪れていることを感じる。


 歴史について描く小説家が、歴史家と同じだけの知識量と密度を持っている必要があるだろうか。高度に抽象化された計算機の技術において、現代のアプリケーションエンジニアが、メモリレジスタとCPUの間で行われるエンディアンのやりとりについて理解している必要があるだろうか。
 知識の広がりは、際限がない。物事の因果、意味的繋がりに重きを置き続ければ、対象となるものからいくらでもその存在の意味について遡ることができる。

 知識を得ること、それ自体は面白い。学べば学ぶほどに、「もっと学ばねば」という思いに駆られる。
 一方で、知識をインプットすることそれ自体には、他者の点からの観測においてはなんの意味もなさない。得た知識から、何が出てくるのか。なにに貢献したのか、ということにやはり意味がある。

 まだ始めたばかりで、とても実践できているか怪しいものであるが、そこで僕は最近、「どこまで勉強しなければいけないのか」ということを、今まで以上に意識的に考えるようにした。
 まずはじめに、総論的な視点から、その分野における各論的な学問、知識体系の連関をアタマに描く。そして、勉強すべき範囲を、”解決したい問題に対して最も貢献度が高くなるように”設定する。より具体的には、対象になっている問題が関連する層と同じ層にある別の問題に対して、対象の問題の層より一つ上の層の対象問題を俯瞰できる視点、対象の問題の層にある問題を構成するより低次元の層について関連する問題を2~3個。ぐらいをアタマに叩きこんで行けばいいのではないかと思う。

 学問の道に戻ること、よりエンジニアとして質の高い仕事をしていきたい、という欲求を考えたときに、自分の器質に従ってなんでもかんでも面白そうな知識に頭を突っ込むのは、効率が悪い。


 どこまで実践できるのかどうかはさておき、自分が学ぶべき範囲、という観点に自覚的になり、知識吸収の範囲をメタ的に線を引いて、優先順位をきちんと設けていくことが必要だな、と考える最近である。

2015年1月21日水曜日

「メディア_アート_アクティビズム | 現代主義の現場から」

「メディア_アート_アクティビズム | 現代主義の現場から」
というシンポジウムに行ってきました。

東京芸術大学の人材育成プログラムの一貫として行われた講演会で、
登壇者は清恵子さん、という、東欧、ドイツ、東南アジアを中心に活動しているキュレータ、メディアアクティビスト(要は革命家みたいなもん?)でした。

東欧の共産主義/全体主義下におけるアーティスト、メディアがどのように活動してきたか、というのをその作品を鑑賞、参照しながら当時の話を振り返る、というような内容で、あまり体系だったものではありませんでした。

個人的には全く考えたことが無い領域だったので、なかなかに知識的面白さはありましたが、自身があまり最近政治的な内容について考えがいかないこと、話が長かったり自分がお腹いたくなったりで、まぁまぁ、という印象。

とは言え、語られた事実(本人が実際に革命の現場を経験してきた)のraw感、見せられる映像のある種のショッキングな感覚、世界史情勢、昨今のデモとの連関など、波及的に考えることは多そうでした。

あ、あと個人的には東欧がらみで、東欧のアニメが良い&おもしろいことは昔から知ってたんだけど、
こんな展示をやってたことを後から知り、後悔しました。



参考リンク
Keiko Sei

geidaiRAM 今日の主催者
「リサーチ型アートプロジェクトのための人材育成事業」らしいです

冒頭Video Infermental 

香港デモ→ファイアチャット
FireChat



spartakiad
チェコスロバキアのマスゲーム。この映像は中々ショッキングかつ面白い。

プラハの春

ビロード革命/ベルベット革命








友人の facebookへの投稿が面白かったので、要点のみ借用。
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パリの銃撃事件に関して書いている人は結構いるけど、中でも目に留まったものいくつか。日本人が書いた日本語のものばかりですが。
言ってしまえばテロなんて毎月のように起こってるにも関わらずこの事件の波紋が大きく伝わるところに、物を書く人たちの当事者意識を嗅ぎ取ることは可能でしょう。
ただ、論点の設定は人それぞれで、私がこうしていろんなものを読もうとしてしまうのもそのせいかと思います。
パリ銃撃、殺された風刺漫画家たちの知られざる日本との交流が明らかに
http://www.huffingtonpost.jp/ju…/caricaturist_b_6440858.html
交流の合ったジャーナリストへのインタビュー。
「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題
http://synodos.jp/international/12340
事件後に(ある意味では懲りずに)出したシャルリー・エブド最新号の表紙を解題している。これは面白い。
でもやっぱりこんなにハイコンテクストなものの意図をみんな深く洞察できるのかという疑問は浮かぶ。
フランスの新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について
http://blog.goo.ne.jp/ii…/e/0d68f604177d2bdeb387e20a5dc9afb0
パリ在住の人の事件を受けてのブログ記事で、住んでる人の感じた空気と在住してきて考えてきたことが照らしあわせて書かれている。
これはテロでなく集団殺人事件だ Parisシャルリ・エブド襲撃事件を斬る-藤原敏史・監督
http://www.france10.tv/international/4581/
風刺漫画の意図はそれなりに汲みつつも、受容のされ方や事件を受けての社会の動きには批判的。
嫌イスラームの再燃を恐れるイスラーム世界
http://www.newsweekjapan.jp/column/sakai/2015/…/post-901.php
案外と少ない「イスラム教徒の立場としてはどうなん?」という話に触れた記事。最近のトピックの羅列となっていて論旨はそれほど明確でない。
仏風刺芸人、検察当局が捜査対象に=「俺はクリバリ」とネットに書き込み
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201501%2F2015011300051
ああこういう人もいるのね、という感じ。
「風刺の精神」とは何か?~パリ銃撃事件を考える
http://www.labornetjp.org/news/2015/0115kikuti
これまで掲載されてきた漫画の変遷を辿ったあとで「言うたかてイエローペーパーの類やん」という身も蓋もない批判をしている。
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2014年4月27日日曜日

最近思っとることとか諸々

こんにちは。なんかすっかりこのブログも下火でござんす。

なんか色々連休利用して一旦思考を整理したいなあと思って記憶の外部化を図ろうかな、みたいなノリのことやります。


君も大人なんだからさ、キッチリしようよ、みたいなアレ、マジファックだわ、と思ってて、それは今でも変わらないんだけど

諸々のことをきちんと進めていこうと思うと、やはり一定のプロトコルが必要だな、みたいなことは痛感してまして、単純にエンジニアやってるだけでおっけー○ な部分もある一方で、そうは言っても外部との取引的サムシングに絡まれる機会も今後あるのでまぁアレでアレでアレなアレ。

半年前ぐらいまでの自分のやってたことは完全に色々歯車が噛み合ってなくて、今思えば本当にいろんな人に迷惑をかけたし、(それは今も変わらないんだけど)どうやって信用というか、謝罪をどうやってやっていこうか、みたいな。本当に。ごめんなさい。

完全に自分視点になってしまうのだけれども、実はやっぱり僕、きちんとした環境とツールがあれば、普通の人よりある程度のパフォーマンスを発揮できる人間のような気がして、単純にそのリソースを効率良く運用する、というシステム的な視点から見ても、コアな機能以外の部分で足を引っ張るような今までやってたことは単純にもったいないというか、馬鹿だったな、と猛省なうなアレ

諸々、本当に申し訳ない。ごめんなさい。きちんと行きます。


自分の基底クラスってなんなんだろう、って考えるのはずーーーーーっと続いてる営みなんだけど、少なくとも高次な意識のレベルにおいて人間の意志はタブララサじゃねーよと思ってるクラスタなので、親クラス叩き続けても、そこにきっときちんとしたメソッドの定義はないと思います。はい。それでもやっぱりかなりハードに近いところに個々人の器質との間から決定されるようなAPIはあるんじゃないの、というかあるでしょ、今でしょ、って感じなので、そこんところきちんと参照しようね、ってアレなアレ
まぁどうせ死ぬときには死ぬので無意味なんですけど

正直そもそもシステム設計してから構築したわけではなくハウルの動く城的に今までの人生生きてきてしまったので、継承関係とか諸々むちゃくちゃなわけですが、
もし無理やりに符名することによってなんらかの自己規定を図るならば、現状機能してる大きな枠組としてのやりたいことは

  • ビジネスしたいよねパッケージ
    • 技術力上げたいよねパッケージ
  • 研究したいよねパッケージ
  • アーティストでいたいよねパッケージ
な感じなのかなあ、本当に?本当にそうかなあ?
まあいいや

ビジネスしたいよね的な話としてはなんだろうね、もうあれじゃん、大部分はカイエン乗りてぇみたいなかんじなのかな、どうなんだろうね
いや違うね、諸々迷惑かけるし、びみょうに技術力とかフリーランスのほうがカッコエエヤンみたいなのとぶつかるからここ数年ストップかけてたところだけど
本質的には僕きっとチームでなにかやるの好きなんだろうな、みたいな感じはあるよね
怠惰であるが、効率主義者でもある、よくわからん私だけど、ヒューマンリソースがきちんと最適化されていない状態(それはチーム内だけでなく世の中一般、特に親しい人に対して)が気に食わないんだろうな、とは思う。だったらそっか、それがきちんと配分されるような組織を作ってしまえばいいんだ、みたいな。さらに、その組織化をやるヒューマンリソースが無くてそれやってないんだったら俺やっちゃおうか、みたいなアレだねたぶん

基本的にはルーキーズ的なノリで、やべえ、俺達まぢやべぇ、マジ俺ら最高、みたいなの大嫌いだから、そうなっちゃうのヤなんだけど、なんだかんだチームでギャっとなんかやって、ギャーーーって感じ、悪くないよねアハハ
見てないんだけどさ、今二宮くんとかがやってるドラマ、絶対ルーキーズの焼き直しだよね。きっと。クソテキトーだけど

でまー現実的な話としては今でも日々色々なことを思いつくわけですが、現状やはり諸々の説明端折ってるけど、エンジニアとして技術上げるなう!なかんじなので、基本的には自分で構築できるようなシステム(This means not only IT.)で小分けに試行錯誤するのがいいかな、って感じ
前に進めば見えてくるものもあるかな、状態ですね。漠然と一応パッケージ自体は毎日運用してるよ、みたいな

ていうかこの連休中にも作りたいものがあるんですけどこんなことやってる場合じゃないですねハゲかハゲなのか

でまある種技術力上げたいよねパッケージははビジネスしたいよねパッケージとmutualであり、かつ、他のパッケージとも依存関係があるのでこれは微妙に同じ階層では無いかもしれないのだけれども,話がわかりやすいのはビジネスとの関連で
やはり楽器にしてもソフトウェア設計にしてもなんにしても、まず先立つ技術があるとやはり諸々のアクションが軽快かつ丁寧かつ充実した感じになるじゃんイイジャン最高ジャンな感じでして、
まぁ何が起きようとも今から2~3年は本当に技術者として魂を悪魔に売りさばくつもりで精進しようと思ってるワーー



研究したい話としては
自分でも信用ならないけど、やはり、もしかすると僕自身はほんとうに研究したくてしょうがないというか、日々研究(This time 研究 is  not meaning only in academism.)のことばっかり考えてるかもしれねーぞこれは、みたいな
それでもやはり漠然と言語一般、認識一般、計算機一般に対して興味があって、
言語や脳については、自分の問題。自分の規定クラスを叩くための。
計算機はなんだろ、好きだから?単純に。俺コンピュータ好きなの?好きらしい。下手くそだけど。

みたいな
じつはでも広くこの宇宙(This time it means the universe is the object only we can observe.)の中でサイセンタン!なのは現状、及び今までは、常にやっぱりコアなアカデミズムであり、ビジネスしたいよねパッケージの方でどんどんイノベーションに関するクラスの継承関係遡っていってもここに来るんじゃねーの、やっぱ、みたいな甘っちょろいことも考えてみたりだよね
まぁでも研究機関一般のお金の巡らせかた、みたいのは誰かre-designしなきゃいけないと思うよね

脳とか言語とか、これはもうむしろ自分問題なので自分でオナってオナーーーってかんじだからいいのだけれども

計算機については本当に毎日アヘってるよね、やっぱコーディングしててもすぐそっち行っちゃうもんね、
ていうか数学最近全く触ってなくてヤバクネ??って思ってる、やろう。

まぁどこまで純粋学問的な計算機科学が社会にインスタントに影響与えられるのかっていうとまぁ計算機もイロイロ、なところでアレなアレだけど、単純にやっぱり物事のコピーが簡単なITの世界においてイノベーティブであるにはアルゴリズムとして複雑なこと商材にしていかないとバカにされちゃうよねウヒャーとか。
まぁ容れ物の問題?も色々な色々で。箱って大事だと思うよけっこう素直に。


でま、
アーティストでいたいよね話としては
まぁ広くは結局サイセンタン!な感じ、でいたいよね、な話だし
ここではもうちょっと表層寄りなところとして、
なんかやっぱ音楽とか美術とか諸々の諸々、ちょーいいよカッケーって思う。


微妙にフルで時間使えないから結果的に音楽との距離感前より若干遠いんだけど、

それはそれで今ご利益あって、ふと音楽聴いてる瞬間に、イイワーって思って泣きそうになるんだよね。最近。
美しく、よく練られた諸々は、すばらP


もしかしたら世界が楽器によって規定されるアナザーワールドに飛ばされる危険性が常に無くも無いから、現時点でありがたくも持ってる楽器が演奏できるすきる、音楽について蓄えている知識、みたいなもの、最小限のコストできちんと維持しておきたいな、ってのはある。
まー金管って大変だよね、そこ





そんなこんなで色々な色々ですが
最近やれてない問題に関して考えてみようとおもう

・その1
確かに朝遅い。朝使うべき。
・その2
その1に関連して睡眠時間無駄。マジ無駄無駄無駄無駄無駄。三分寝てシャッキリpeopleになりたい
・その3
数学やれカス。変な話最悪受験数学みたいの毎日一個解くとかでも十分だから。
・その4
資料整理。そして(パソコン内の)ファイル整理。クソゴミ。エンジニアとしてイカン。なおす。
・その5
楽器練習。練習しろゴミカス。
・その6
なんか太ったらしい。やせる。


みたいな?
とりあえず抽象空間での概念の外観は掴んだかもなので、具体的なアクションとしてなにすりゃいいのか落とす作業を今日明日とかでやるわよん



全然ハッピーじゃないけどハッピーな感じを装って行きたいものであるわねオホホ





2014年3月25日火曜日

言葉を紡ぐ、構造を紡ぐ、仕組みを紡ぐ

最近、サーバサイドの業務もこなしつつ、フロントエンドの実装でFlashを使っています。

Flashというと、僕らの世代には動画のイメージが強いですが(現在も動画配信のツールとして無くてはならないものであることに変わりはないのだけれども)、実際には現在となっては強力な構文を持ったActionScriptを用いて、インタラクティブなコンテンツを制作する上で重要な役割を担っています。


......というのもじつはもはや3~4年ぐらい前までの話で、2010年過ぎたあたりからはブラウザの足並みが揃ってきたのもあって本格的にJavaScript,HTML5に代替されている昨今ですが。

ただまぁ業務レベル、国内レベルにおいてはまだまだFlashの受容も根強く、ソースコード丸見えになるjsではちょっと、だったり、現在のFlash統合開発環境はそのままAIRアプリやiOS,Androidにコンパイルできたりと、意外とお先真っ暗でもないようです。(使って初めて知ったけど)

というわけで、物理モデリング系、ゲーム系の開発も視野に入れつつフロントエンド実装に勤しんでいる昨今でありますが、ActionScript3.0の教科書の序文が非常に印象深かったので引用致します。

Flashの世界には、その作業の中でActionScriptを理解し使う人々とそうでない人々の間に深い隔たりがあります。私達は時々これを”デザイナー”と”デベロッパー2の違いであると勘違いします。その勘違いは、”デザイナー”はコードを理解せず、”デベロッパー”はデザインが分からないものだという思い込みの上に成り立っています。これはどう見ても、物事を都合よく単純化しすぎた見方です。
“デザイナー”や”デベロッパー”という呼び方は、私達がまだWebというエキサイティングなメディアを理解しようと務めていたWebの勃興時代には、それで十分でした。以来10年以上たって私達は、このメディアは全く新しいものかというとそうではなく、既存のものから孤立しては存在しないものなんだとういうことに気づきました。Webは既存のものとともに存在するものだということがわかったのです。
この言い方は、職務内容の説明としては甚だ不十分です。あなたの携わっているデザインの仕事は、どのようなものですか?チームの中で、あなたの役割は何ですか?あなたの専門はグラフィックデザインですか?それともモーショングラフィック、或は情報デザイン(アーキテクチャ)、オブジェクトデザイン(モデリング)ですか?”デザイナー”という包括的な呼び方のの赤に、グラフィックデザイナー、情報デザイナー、アニメーター、イラストレーターをひっくるめてしまうことで、”デザイナー”という呼び方からその意味を奪ってしまっているのです。
“デベロッパ-“の役割は、少なくともFlashを使った場合では、少しは明確になっているようです。”デベロッパー”というと、その仕事にはおそらく、ユーザーインターフェイスの構築やプログラミングが含まれると考えられます。
職務内容を説明するときに必要な細部まで伝えられない肩書きを使用すると、伝わる意味が極めて限られたものになってしまいます。たとえば、”わたしはデザイナーです”という言い方は、プログラミングを学ぶ時間は無いと言おうことを正当化するために使うことができます。同様に、”私は直線を引くことはできません”という言い方は、”デベロッパー”にはグラフィックの基本やモーショングラフィック、ユーザーインターフェイスのデザインを学ぶ時間が無いということを正当化するための言い訳として使うことができます(一般的に信じられているのとは逆に、優秀なグラフィックデザイナーやモーショングラフィックデザイナーは、イーゼルや鉛筆では印象的な直線を描くことはできません。同様に、私のしっている才能あふれるアーティストの何人かも、そこそこのユーザーインターフェイスをデザインすることもできません。)

そうではなく、個人的なレベルでみなさんは”アーティスト”という肩書きを受け入れ、その肩書を携行できる権利を求めるべきなのです。その権利を得ると皆さんの仕事のやり方は大きな影響を受ける事になりますが、みなさんの作成物にはさほど影響しません。旅の目的地は仕事を完璧に仕上げるところにあるのです。

好むと好まざるにかかわらず、わたしたちは現代のアーティストです。デジタルメディアで満たされたこのクレイジーですばらしいコングロマリットが私達のイーゼルであり、パレットであり、絵筆なのです。わたしたちは美しいものや示唆にとんだもの、他に影響をおよぼすものを生み出すことができます。そして過去の時代よりも多くの方法で多くの人びとのっ子ろを動かすことができるのです。

わたしたちのメディアは広大で、形状やコントラスト、複写、カラー、印刷に充填をおいたグラフィックデザインや、フレーミング、編集、合成が、アニメーターの意図や表現のつまった道具箱のように、また作家や監督、俳優が生み出す芸術のように動作するモーショングラフィックデザイン、ユーザーインターフェイスデザインと情報アーキテクチャ、そしても中でもいちばん新しく、まだ芸術形式とは認められていないプログラミングなど、多くの事柄を包んでいます。

しかしプログラミングは芸術形式なのでしょうか?写真や映画は、絵画や操り人形、演劇が芸術形式であるのなら、芸術形式といえるのでしょう。
写真の技術が開発されたとき、それは技術が到達した見事な成果であると歓迎されましたが、それだけのことでした。写真は現実を捉える技術的な行為であると見なされたのです。それから150年以上たって、わたしたちは今日、主観的な表現や芸術表現の手段として写真が表す意図をくみとることができます。
私達が映画を、現実の絶対的、客観的な断片として、しかし芸術性の欠けた記録として目撃したのはわずか100年前です。今日わたしたちは映画の客観的な特質や、名匠の作品とホームムービーを分ける多くの事柄を心得ていますが、それは最初からそうであったわけではありません。類とオーギュストのルミエール兄弟がリヨン駅に機関社が到着するフィルムを上映した時、それを見た人々は、機関社が突進してくると思い込み恐怖のあまり逃げ出してしまいました。今ではわたしたちの映画に対する理解はもっとふかまっており、私達は映画の”読み方”を知っています。しかし映画通にはなったのですが、プログラミングに関してはまだそこまで理解が深まっていません。

アーティストと職人を分ける魔法の線があります。それは創造性のひらめきによる線なのですが、苦心惨憺して切り拓く線で、尽きることのない情熱やエネルギー、一意専心の積み重ねによって初めて着想できる線です。アーティストは同時に畏敬の年を起こさせ、経験を分け与え、他人の感情を高ぶらせる才能をみなぎらせています。絵画や彫刻、建築の名匠にアーティストの呼び名が用意されたという事実からみれば、私達は芸術を構成するものは何で、なぜその名匠がアーティストなのかを心得ていることになります。評価の幅は過去よりも広くなっているのです。
今日わたしたちは、プログラミングは純粋に技術的な仕事であるとみなしています。創造性と技術性を分けて語るとき、プログラマーは後者に属します。プログラマーは今日、映画の作成者が前世紀の初頭そうであったように、人目につかないところで懸命に働き、その微妙な芸術性のニュアンスに適切な評価が下される”コード通”の社会の到来を待つアーティストなのです。こんな社会が到来するまで一世紀かかるでしょうか?わたしはそうは思いません。

Keith Petersのようなプログラマ/アーティストのおかげで、私達はプログラミングとビジュアルアートの間に渡された橋を目撃することができます。この端はプログラミングの中の隠れた技術性の理解を社会に広め、その評価を高める役割を果たします。Keithの書くコードは視覚的で生き生きとしており、躍動しながら呼吸をして、成長し、先を全く予測できないほどにユニークな、素晴らしい方法で変化します。変数やステートメント、ループ、メソッド、数々のクラスは見る者の感情に訴え、日常の体験を超えた全くアタtらしい光と音で構成された世界の発見へと導いてくれます。

本書のオリジナル版はActionScript2.0で記述されていました。その後Flashのプラットフォームでは、ActionScript3.0という新しいスクリプト言語とFlashPlayer9への新しい仮想マシンの導入という大きな変革がもたらされました。この改良は新しい可能性の世界を切り開くもので、わたしは、Keithがこの新しいテクノロジーを使って「doundation ActionScript Animation: Making Things Move!」に修正を加えると聞いたとき、非常に興奮しました。とは言え、そのワクワクするような技術や新しい本のことはさておいても、一番重要なことを忘れてはいけません。
本書は芸術に関する本なのです。
プログラミングは新しい、エキサイティングな芸術形式で、毎日のように人々の目前で成長し、関連性を深め、評価を高めています。どんな技術形式にせよそれを学ぶ最善の方法は修行を罪、師匠のもつ貴重な体験を共有することです。本書では、本書の師匠が芸術的なプログラミングの旅へと皆さんを導いてくれます。これはKeithが皆さんのとなりに座っている環境の次に恵まれた環境です。本書は発見の旅への案内役を果たすのです。
駆け出しのアーティストはFlashマスターの仲間入りを果たすべく、その準備をはじめなければなりません。
本書に書かれた知識は、皆さん自身の創造的な可能性の扉を開く礎となります。よくいわれるようにあとは10%のいひらめきと90%の努力です。夢見る人は計画し、アーティストは創作します。さあはじめましょう!
みなさんのイーゼルと絵筆は用意されています。ここから皆さんの旅が始まるのです。


僕は卓越したプログラマでもないし、卓越した芸術家でもないから、偉そうなことは言えないのだけれども、僕はこの序文を読んだ時に、軽い衝撃を受けた。
知っていて、それだからこそ嫌いじゃないのであろう情報技術というものに潜在的に抱いていた思いを説明してもらった思いがした。
十分に僕らは論理的で、それでいて芸術的な存在で居ることができる。(すくなくともその素地は与えられている。)

2014年3月19日水曜日

「小さく書いていくことで露になる活字の群れそのもの或いはその生産過程を体験していく自分自身について(1)」



ある作家に対して痛く感激し、触発されるようにして書き溜めた日記(2013528日のもの)の文章を意味の通るように多少修正し、投稿します。先に投稿した実際の文字そのものが、文の内容そのものにも密に関わっています。後半は後日。


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ロベルト・ヴァルザー(Robert Walser, 1878-1956)というスイス人は、自身を独白することへの羞恥に一生涯囚われ乍らも、文字を書くという行為に依ることは諦めず、結果正常な形では全く筆を取れない人間であった。おそらくは語るべき内容を彼は無数に所有していた。告白と創作への欲求に強烈に駆られていた。しかしそれに対する黙秘の意識や恥じらいが先立ち、彼はバランスを欠いた状態で内面に大きな矛盾を抱え込んでいたのだろう。

microscriptsMikrogrammeという彼が編み出した鉛筆による超微小文字の草稿に出会ったのは先週の話だが、彼はこの誰にも解読できない方法によってのみ「書くこと」を再開することができた。23ミリの小さな糸のようなインクのしみは、まさしく私自身が呪物的(fetisch)に異常に共鳴し、興奮してしまうような文字、ことばの破片であり、見られたくも語りたくもないことに対する創作の熱をしかし密かにどこかで発散させたいと願っている、相反する、分裂した自分の思いと見事に重なるものがあった。ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin, 1892-1940)が「もう一人の」小文字書きであったという事実は、彼が独自に抱えていた思想の形成そのものの特徴を直接方向付けるものでもあり、彼のアーカイヴに見られるドイツ語によるメモ書きはまさしく絶え間なく降り注ぐ「活字の吹雪(Gestöber der Lettern)」を思わせるに相応しい。文字はこのような方法で書かれるとるとき、微細な塵のように群を成し襲いかかってくるようなものとしてその本来の正体を露にする。

ヴァルザーもベンヤミンも、今私が、ここまで小さな文字をしかも日本語という別の言語で、自身の筆跡に感化され小文字を書き出していることを知ったらどう思うだろうか。「書く」という動作は、その瞬間においては身体的に動きのある出来事であり、ことばが液化してまさにペン先からほとばしっている(まさに今この)現場は、副次的な処理過程では全くなく、とても不可解で驚くべき活動として捉えられるべきである。そしてまたこの「剥片(はくへん/Flocke)は、果たして書かれるために書かれるだけでなく、読まれるためにも書かれているものなのだろうかという疑念が、今まさにこの「書く」という行為を通して自分自身に生じている。小さなシミとして何ふりかまわず自分の着想をなぐり書いておくこと。力みも生じず、気負うものもなく誰のことも気にせずに書くこと。否、ここまで尽くしても自分はこの胸のヒメゴトをまだ語ることはできない。ヴァルザーと彼の偉業を知ったとき、彼ほどこうした感情の動きについて究極的な所まで突き詰め切った人はいないのではないかと予感した。


文字をペンによって書く、という行為は今やとても衰退してきていて、——これに関しては、文字を早く「打つ」達人という形なり、なにか別の形によって人間はその未開の能力をいつでも垣間見せ得るという点で必ずしも自分は悲観的なだけではないにしても――サルトルが本の中でインクのシミにむきだしの実存が見出されるのだといくら読み手に語ったとしても、これからは彼のこの驚嘆はどこまで読者にとって切実に「不気味なもの(unheimlich)」として響くのだろうか。

つづく

「小さく書いていくことで露になる活字の群れそのもの或いはその生産過程を体験していく自分自身について(本体)」