2014年2月23日日曜日

書評:マイケル・サンデル著(鬼澤忍訳)『それをお金で買いますかー市場主義の限界』(早川書房、2012年)


―はじめまして。東京都在住の「20代男性」と申します。経済学・経済史に関心があり、専門に勉強しています。まだまだ不勉強ではありますが、これから主として社会科学に関する著書、社会経済に関する新聞記事等に関するレビューを中心に投稿していきたいと思います―


 初投稿の今回は、マイケル・サンデル著(鬼澤忍訳)『それをお金で買いますかー市場主義の限界』(早川書房、2012年)[原題=What Money Can't Buy : The Moral Limits of Market]に関する書評である。

 筆者のサンデル氏は世界各国で大ベストセラーとなった『これからの「正義」の話をしよう』でよく知られている。本来であれば、同氏の代表作である同書と関連付けながら、書評を書くべきであろう。ところが、申し訳ないことに評者である私は同書をまだ読んでおらず、評者としては適格とは言えないかもしれない。この点については、差し当たりご了承願いたい。
 
 『これからの「正義」の話をしよう』は、日本では2010年5月に刊行され、道徳哲学を主題としながらも、同年、日本経済新聞「エコノミストが選ぶ ベスト経済図書10」(2010年12月26日付 朝刊19面)で2位にランクインし、日本の経済学者からも強い関心が寄せられていた。
 そのサンデル氏が、道徳哲学の観点から、ついに、経済学に直接モノ申す、ということであるから、我々経済学を専攻する人間としては読まずにいられない訳である。

 前置きが長くなってしまったが、以下が本書の構成である。


  • 序章―市場と道徳
  • 第1章 行列に割り込む
  • 第2章 インセンティブ
  • 第3章 いかにして市場は道徳を締め出すか
  • 第4章 生と死を扱う市場
  • 第5章 命名権

 序章では、(アメリカにおける)刑務所の独房を格上げする権利や、インドの代理母による妊娠代行サービスを金銭で購入できるなど、ショッキングな事例を提示することによって、現代が「ほぼあらゆるものが売買される時代」(p.15)であり、「過去30年にわたり、市場―および市場価値―が、かつてないほど生活を支配するようになってきた」(同頁)ことが最初に示されている。

 筆者はそのような社会に対し、道徳哲学の立場から問題提起を行っている。その根拠として、①不平等にかかわるもの、②腐敗にかかわるもの、という2点が挙げられている(p.19)。

 ①では、貧富の差が問題視されている。とは言っても、奢侈品や、与えられる余暇や、その過ごし方といった格差はさほど問題でなく、重要なのは「政治的影響力、すぐれた医療、犯罪多発地域ではなく安全な地域に住む機会、問題だらけの学校ではなく一流学校への入学など」(同頁)といった、民主主義や生存といったレベルでの不平等が特に問題であるとされている。

 ②では「市場はものを分配するだけでなく、取引されるものに対する特定の態度を表現し、それを促進する」(p.20)とあり、事例として「新入生となる権利を最高入札者に売れば、収益は増えるかもしれないが、大学の威厳と入学の名誉は損なわれる」(同頁)ことなどが挙げられている。

 以上を踏まえて、筆者は経済学者に対する批判を提示しつつ、本書の主題を述べている。少々長くなるが、以下に引用したい。


―経済学者はよく、市場は自力では動けないし、取引の対象に影響を与えることもないと決めつける。だが、それは間違いだ。市場はその足跡を残す。ときとして、大切にすべき非常的価値が、市場価値に押しのけられてしまうこともあるのだ。(p.20)
 
―もちろん、大切にすべき価値とは何か、またそれはなぜかという点について、人々の意見は分かれる。したがって、お金で買うことが許されるものと許されないものを決めるには、社会・市民生活のさまざまな領域を律すべき価値は何かを決めなければならない。この問題をいかに考え抜くかが、本書のテーマである。(pp.20-21)


 筆者の述べる通り、現代の社会は様々な局面に対して、市場という装置を用いることで、生活をより便利なものにするとともに、様々な問題に対処しようとしている。
(すぐに頭に思い浮かぶ例として、工場からの有害物質の排出など公害という「外部不経済」に対し、排出権取引制度による市場経済への「内部化」などがある)

 もちろん市場経済が、21世紀の現在においても最も信頼すべき社会制度であることに、反論の余地は無いであろう。
(例えば、市場経済と計画経済という異なった制度を採用した韓国と北朝鮮の圧倒的な経済格差からもそれは明らかである)

 だが「市場」を盲信し、ただ演繹的かつ盲目的に、それを現実の様々な問題に適用することは、上述のような弊害をもたらす。
 筆者は「問題を解決するには、それらの善の道徳的な意味と、その価値を測るのにふさわしい方法を、問題ごとに議論する必要がある。」(p.22, 傍線は評者)と述べているが、ここから評者が学ぶことは大きかった。

 実は、筆者の核となる主張はこの序章で殆ど述べ尽くされており、第1章から第5章は、そのほとんど全てが、主として現代の(アメリカを中心とした)社会におけるケーススタディに充てられている。(当然そのような構成になることは、先の引用からも明らかであろう)

 学部の2年生の一般教養で倫理学を学んだ私としては、てっきり倫理学・道徳哲学における議論が援用されつつ、様々な現実の問題に切り込んでいくことを期待してしまったが、広く一般人向けに書かれた本のためか、筆者のスタンスかは定かではないが、そうした記述は見られなかった。

 だが、第1章から第5章が単なる事実の羅列かと言うと、決してそうではない。そこはさすがのサンデル氏である。評者は次の2点を高く評価したい。


  1. 標準的な経済学の教科書の記述や、ゲイリー・ベッカー氏、フレッド・ヒルシュ氏ら経済学者の言説を引用しながら、経済学に関して内在的な議論・批判を行っている。
  2. 膨大な事例が持ち出されているが、各々にきちんと脚注がついており、新聞記事などの出典が示されている。

 まず上記1.についてであるが、いわゆる「主流派経済学」を批判する日本人の新書の類では、ろくに相手の領域も勉強せず、自分なりの「仮想敵国」を構築し、都合が良いように批判を行っている本が散見される。
 しかし、筆者の手法は異なる。謝辞で、大学の同僚のグレゴリー・マンキュー氏を自身の授業に招き、議論を重ねたことを明らかにしているように、自ら経済学に歩み寄り、内在的な批判を行おうとしているのだ。
 ここにその全て挙げる余裕は無いため、詳しくは本書を参照されたいが、興味深い例をここに一つ掲げる。それは、ボランティアなどの社会活動に対し、市場なインセンティブやメカニズムを導入し、金銭を提供した場合、その行動が増えるのではなく減るというものである(第3章)。ここで、次の事例を見てほしい。


―全米退職者協会はある弁護士団体に、1時間あたり30ドルという割引料金で、貧しい退職者の法律相談に無料で乗ってくれるかどうかをたずねた。弁護士団体は断った。そこで退職者協会は、貧しい退職者の法律相談に無料で乗ってくれるかどうかをたずねた。今度は弁護士団体も承諾した。(p.172)


 筆者はこの現象を、47歳という若さで亡くなったイギリスの経済学者ヒルシュ氏のいう「商品化効果」によって説明する。すなわち、こうしたケースにおける金銭の提供は、「内因的動機(たとえば道徳的信念や目の前の課題への関心)」を「締め出す」という「腐食作用」を有しているというのである。これは最も基本的な経済学の法則の一つである「金銭的インセンティブを増やせば供給も増える」の逆を意味する。
 このように筆者は、市場メカニズムがもたらす「腐敗」のプロセスを明らかにしながら、経済学の想定とは異なる、重要な例外を提示しているのである。また同章では、贈り物に関する議論において、ミクロ経済学における「シグナリング」に対し疑義を呈するなど、興味深い主張が数多く見られる。

 次に、上記2.についてであるが、注付けくらい高校生や大学生でもできるだろうと呆れられてしまうかもしれないが、日本の一般書や新書で、これがきちんとできていないものも多いのではないだろうか。すなわち、自分の知っている事実を、ただ単に思いつきで、並べているような本の類である。

 ところが本書の脚注は、総数338にも及ぶ。ここからは、経済学や社会学、歴史学の実証家としてのサンデル氏の一面を評者は感じずにいられない。

 特に面白かったのは第4章「生命保険の道徳の簡単な歴史」(pp.203-210)である。ここで筆者は、歴史的にみて、多くの国で生命保険は道徳的な観点からタブー視されており、19世紀半ばまでヨーロッパ諸国に生命保険会社が存在せず、日本でも最初の生命保険会社の登場は1881年のことであったと述べている(評者注:日本で最初の生命保険会社は明治生命保険である)。ところがイギリスは例外であり、17世紀末ロンドンのロイズ・コーヒーハウスで、船主、仲介業者、保険業者による賭け事が始まり、それが生命保険の起源となったということである。本書の主題からは脱線するが、生命保険の歴史というそれ自体、経済史、思想史の観点から研究するのは面白そうだと感じた。


 以上は限られた箇所のみの紹介であり、第3章・第4章に偏った内容紹介となってしまったが、評者の時間的・能力的限界もあり、これをもって本文の書評に代えさせていただきたい。

 それでは、本書を読み終わっての感想を述べたい。まず一番痛感したのは、学問をする上で、あらゆる価値観から自由で、中立的な立場に立つことの難しさである。
 経済学が社会科学である以上、あらゆる国家、宗教、民族、世代等々の信条・信仰から自由であり、客観的な議論ができるというように、評者を含め、日常考えている人は多いのはでないか。しかし、それがややもすると、「市場信仰」という別の信仰に繋がっている可能性が大いにあり得るのだ。

また次に、本書のような、他分野を専門とする研究者からの経済学への批判は、大変価値があることだと筆者は感じた。
 もちろん、本書のような批判が存在するからといって、直ちに経済学が無意味なものと化す訳ではないし、市場の分析や制度設計に関する議論は今後も継続して行われるべきである。しかし、そうした中で抜け落ちる、道徳的な議論や、経済学それ自体が持つ矛盾に関して、重要な警鐘を鳴らしたのが本書であるといえよう。本書は経済学を学ぶもの者にとって必読の書であるとともに、学問の領域を越えた議論の1つのモデルケースとして、多くの社会科学者を学ぶ者に読まれるべきである。

 また、戦後史に関心がある評者としては、本書は「1990年代論」としても興味深かった。どうやら筆者の問題視する市場主義の広範な範囲に渡る浸透は、80-90年代、急速に進んだようである。この時期は、評者が生まれ、今日まで生きてきた時代とも完全に合致する訳だが、我々の世代が育った時代は、歴史的に見て、どのような局面にあったのだろうか。数十年後、ぜひ歴史を振り返ってみたい時代である。

 最後に、本書を読み評者が有した、ambivalentな感覚について記して拙稿を閉じたい。少年時代、熱心な野球ファンであったという筆者によると、かつてのアメリカの球場では次のような光景が広がっていたという。


20世紀の大半の期間、球場は企業幹部が労働者と並んで座り、ホットドッグやビールを買うために誰もが同じ列に並び、雨が降れば金持ちも貧しい人も等しく濡れる場所だった。(p.244)


しかし、ここに変化の兆しが訪れる。


ところが、ここ数十年で事態は変わった。フィールドをはるかに下に見下ろすスカイボックス・スイートの登場によって、富裕階級や特権階級と、下のスタンドにいる庶民が隔てられてしまったのだ。(pp.244-245)


 かつてのアメリカの球場の光景は、おそらく日本にも当てはまるだろう。確かに、こうした異なる階級が、束の間ではあるが、試合中は楽しい時間を共にするという「共同体」的な光景は微笑ましく、美しい。
 しかし、貧しい家庭の少年が、「将来はスカイボックスに座れるくらい、お金持ちになるんだ」と夢見て、将来に向けて努力するのが果たして悪いことなのだろうか。

 果たしてどちらが望ましいのか。評者は、その答えは当面出せそうにもない。(完)


参考文献

経済学に馴染みの無い読者は、本書を読む前に


  • N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー経済学1 ミクロ編(第3版)』または
  • 同上『マンキュー経済学2 マクロ編(第3版)』
(いずれも足立英之ほか訳、東洋経済新報社、2014年)


のⅠ部・Ⅱ部を通読しておくと良いかもしれない。
また、面白い事例を元に、経済学者の基本的な思考法を叙述したものとして、


  • スーティヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー『ヤバい経済学(増補改訂版)』(望月衛訳、東洋経済新報社、2007年)

がある。これらを読むことで、経済学の基本的な考え方と対比させながら、本書を読むことができるだろう。



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