2014年4月27日日曜日

最近思っとることとか諸々

こんにちは。なんかすっかりこのブログも下火でござんす。

なんか色々連休利用して一旦思考を整理したいなあと思って記憶の外部化を図ろうかな、みたいなノリのことやります。


君も大人なんだからさ、キッチリしようよ、みたいなアレ、マジファックだわ、と思ってて、それは今でも変わらないんだけど

諸々のことをきちんと進めていこうと思うと、やはり一定のプロトコルが必要だな、みたいなことは痛感してまして、単純にエンジニアやってるだけでおっけー○ な部分もある一方で、そうは言っても外部との取引的サムシングに絡まれる機会も今後あるのでまぁアレでアレでアレなアレ。

半年前ぐらいまでの自分のやってたことは完全に色々歯車が噛み合ってなくて、今思えば本当にいろんな人に迷惑をかけたし、(それは今も変わらないんだけど)どうやって信用というか、謝罪をどうやってやっていこうか、みたいな。本当に。ごめんなさい。

完全に自分視点になってしまうのだけれども、実はやっぱり僕、きちんとした環境とツールがあれば、普通の人よりある程度のパフォーマンスを発揮できる人間のような気がして、単純にそのリソースを効率良く運用する、というシステム的な視点から見ても、コアな機能以外の部分で足を引っ張るような今までやってたことは単純にもったいないというか、馬鹿だったな、と猛省なうなアレ

諸々、本当に申し訳ない。ごめんなさい。きちんと行きます。


自分の基底クラスってなんなんだろう、って考えるのはずーーーーーっと続いてる営みなんだけど、少なくとも高次な意識のレベルにおいて人間の意志はタブララサじゃねーよと思ってるクラスタなので、親クラス叩き続けても、そこにきっときちんとしたメソッドの定義はないと思います。はい。それでもやっぱりかなりハードに近いところに個々人の器質との間から決定されるようなAPIはあるんじゃないの、というかあるでしょ、今でしょ、って感じなので、そこんところきちんと参照しようね、ってアレなアレ
まぁどうせ死ぬときには死ぬので無意味なんですけど

正直そもそもシステム設計してから構築したわけではなくハウルの動く城的に今までの人生生きてきてしまったので、継承関係とか諸々むちゃくちゃなわけですが、
もし無理やりに符名することによってなんらかの自己規定を図るならば、現状機能してる大きな枠組としてのやりたいことは

  • ビジネスしたいよねパッケージ
    • 技術力上げたいよねパッケージ
  • 研究したいよねパッケージ
  • アーティストでいたいよねパッケージ
な感じなのかなあ、本当に?本当にそうかなあ?
まあいいや

ビジネスしたいよね的な話としてはなんだろうね、もうあれじゃん、大部分はカイエン乗りてぇみたいなかんじなのかな、どうなんだろうね
いや違うね、諸々迷惑かけるし、びみょうに技術力とかフリーランスのほうがカッコエエヤンみたいなのとぶつかるからここ数年ストップかけてたところだけど
本質的には僕きっとチームでなにかやるの好きなんだろうな、みたいな感じはあるよね
怠惰であるが、効率主義者でもある、よくわからん私だけど、ヒューマンリソースがきちんと最適化されていない状態(それはチーム内だけでなく世の中一般、特に親しい人に対して)が気に食わないんだろうな、とは思う。だったらそっか、それがきちんと配分されるような組織を作ってしまえばいいんだ、みたいな。さらに、その組織化をやるヒューマンリソースが無くてそれやってないんだったら俺やっちゃおうか、みたいなアレだねたぶん

基本的にはルーキーズ的なノリで、やべえ、俺達まぢやべぇ、マジ俺ら最高、みたいなの大嫌いだから、そうなっちゃうのヤなんだけど、なんだかんだチームでギャっとなんかやって、ギャーーーって感じ、悪くないよねアハハ
見てないんだけどさ、今二宮くんとかがやってるドラマ、絶対ルーキーズの焼き直しだよね。きっと。クソテキトーだけど

でまー現実的な話としては今でも日々色々なことを思いつくわけですが、現状やはり諸々の説明端折ってるけど、エンジニアとして技術上げるなう!なかんじなので、基本的には自分で構築できるようなシステム(This means not only IT.)で小分けに試行錯誤するのがいいかな、って感じ
前に進めば見えてくるものもあるかな、状態ですね。漠然と一応パッケージ自体は毎日運用してるよ、みたいな

ていうかこの連休中にも作りたいものがあるんですけどこんなことやってる場合じゃないですねハゲかハゲなのか

でまある種技術力上げたいよねパッケージははビジネスしたいよねパッケージとmutualであり、かつ、他のパッケージとも依存関係があるのでこれは微妙に同じ階層では無いかもしれないのだけれども,話がわかりやすいのはビジネスとの関連で
やはり楽器にしてもソフトウェア設計にしてもなんにしても、まず先立つ技術があるとやはり諸々のアクションが軽快かつ丁寧かつ充実した感じになるじゃんイイジャン最高ジャンな感じでして、
まぁ何が起きようとも今から2~3年は本当に技術者として魂を悪魔に売りさばくつもりで精進しようと思ってるワーー



研究したい話としては
自分でも信用ならないけど、やはり、もしかすると僕自身はほんとうに研究したくてしょうがないというか、日々研究(This time 研究 is  not meaning only in academism.)のことばっかり考えてるかもしれねーぞこれは、みたいな
それでもやはり漠然と言語一般、認識一般、計算機一般に対して興味があって、
言語や脳については、自分の問題。自分の規定クラスを叩くための。
計算機はなんだろ、好きだから?単純に。俺コンピュータ好きなの?好きらしい。下手くそだけど。

みたいな
じつはでも広くこの宇宙(This time it means the universe is the object only we can observe.)の中でサイセンタン!なのは現状、及び今までは、常にやっぱりコアなアカデミズムであり、ビジネスしたいよねパッケージの方でどんどんイノベーションに関するクラスの継承関係遡っていってもここに来るんじゃねーの、やっぱ、みたいな甘っちょろいことも考えてみたりだよね
まぁでも研究機関一般のお金の巡らせかた、みたいのは誰かre-designしなきゃいけないと思うよね

脳とか言語とか、これはもうむしろ自分問題なので自分でオナってオナーーーってかんじだからいいのだけれども

計算機については本当に毎日アヘってるよね、やっぱコーディングしててもすぐそっち行っちゃうもんね、
ていうか数学最近全く触ってなくてヤバクネ??って思ってる、やろう。

まぁどこまで純粋学問的な計算機科学が社会にインスタントに影響与えられるのかっていうとまぁ計算機もイロイロ、なところでアレなアレだけど、単純にやっぱり物事のコピーが簡単なITの世界においてイノベーティブであるにはアルゴリズムとして複雑なこと商材にしていかないとバカにされちゃうよねウヒャーとか。
まぁ容れ物の問題?も色々な色々で。箱って大事だと思うよけっこう素直に。


でま、
アーティストでいたいよね話としては
まぁ広くは結局サイセンタン!な感じ、でいたいよね、な話だし
ここではもうちょっと表層寄りなところとして、
なんかやっぱ音楽とか美術とか諸々の諸々、ちょーいいよカッケーって思う。


微妙にフルで時間使えないから結果的に音楽との距離感前より若干遠いんだけど、

それはそれで今ご利益あって、ふと音楽聴いてる瞬間に、イイワーって思って泣きそうになるんだよね。最近。
美しく、よく練られた諸々は、すばらP


もしかしたら世界が楽器によって規定されるアナザーワールドに飛ばされる危険性が常に無くも無いから、現時点でありがたくも持ってる楽器が演奏できるすきる、音楽について蓄えている知識、みたいなもの、最小限のコストできちんと維持しておきたいな、ってのはある。
まー金管って大変だよね、そこ





そんなこんなで色々な色々ですが
最近やれてない問題に関して考えてみようとおもう

・その1
確かに朝遅い。朝使うべき。
・その2
その1に関連して睡眠時間無駄。マジ無駄無駄無駄無駄無駄。三分寝てシャッキリpeopleになりたい
・その3
数学やれカス。変な話最悪受験数学みたいの毎日一個解くとかでも十分だから。
・その4
資料整理。そして(パソコン内の)ファイル整理。クソゴミ。エンジニアとしてイカン。なおす。
・その5
楽器練習。練習しろゴミカス。
・その6
なんか太ったらしい。やせる。


みたいな?
とりあえず抽象空間での概念の外観は掴んだかもなので、具体的なアクションとしてなにすりゃいいのか落とす作業を今日明日とかでやるわよん



全然ハッピーじゃないけどハッピーな感じを装って行きたいものであるわねオホホ





2014年3月25日火曜日

言葉を紡ぐ、構造を紡ぐ、仕組みを紡ぐ

最近、サーバサイドの業務もこなしつつ、フロントエンドの実装でFlashを使っています。

Flashというと、僕らの世代には動画のイメージが強いですが(現在も動画配信のツールとして無くてはならないものであることに変わりはないのだけれども)、実際には現在となっては強力な構文を持ったActionScriptを用いて、インタラクティブなコンテンツを制作する上で重要な役割を担っています。


......というのもじつはもはや3~4年ぐらい前までの話で、2010年過ぎたあたりからはブラウザの足並みが揃ってきたのもあって本格的にJavaScript,HTML5に代替されている昨今ですが。

ただまぁ業務レベル、国内レベルにおいてはまだまだFlashの受容も根強く、ソースコード丸見えになるjsではちょっと、だったり、現在のFlash統合開発環境はそのままAIRアプリやiOS,Androidにコンパイルできたりと、意外とお先真っ暗でもないようです。(使って初めて知ったけど)

というわけで、物理モデリング系、ゲーム系の開発も視野に入れつつフロントエンド実装に勤しんでいる昨今でありますが、ActionScript3.0の教科書の序文が非常に印象深かったので引用致します。

Flashの世界には、その作業の中でActionScriptを理解し使う人々とそうでない人々の間に深い隔たりがあります。私達は時々これを”デザイナー”と”デベロッパー2の違いであると勘違いします。その勘違いは、”デザイナー”はコードを理解せず、”デベロッパー”はデザインが分からないものだという思い込みの上に成り立っています。これはどう見ても、物事を都合よく単純化しすぎた見方です。
“デザイナー”や”デベロッパー”という呼び方は、私達がまだWebというエキサイティングなメディアを理解しようと務めていたWebの勃興時代には、それで十分でした。以来10年以上たって私達は、このメディアは全く新しいものかというとそうではなく、既存のものから孤立しては存在しないものなんだとういうことに気づきました。Webは既存のものとともに存在するものだということがわかったのです。
この言い方は、職務内容の説明としては甚だ不十分です。あなたの携わっているデザインの仕事は、どのようなものですか?チームの中で、あなたの役割は何ですか?あなたの専門はグラフィックデザインですか?それともモーショングラフィック、或は情報デザイン(アーキテクチャ)、オブジェクトデザイン(モデリング)ですか?”デザイナー”という包括的な呼び方のの赤に、グラフィックデザイナー、情報デザイナー、アニメーター、イラストレーターをひっくるめてしまうことで、”デザイナー”という呼び方からその意味を奪ってしまっているのです。
“デベロッパ-“の役割は、少なくともFlashを使った場合では、少しは明確になっているようです。”デベロッパー”というと、その仕事にはおそらく、ユーザーインターフェイスの構築やプログラミングが含まれると考えられます。
職務内容を説明するときに必要な細部まで伝えられない肩書きを使用すると、伝わる意味が極めて限られたものになってしまいます。たとえば、”わたしはデザイナーです”という言い方は、プログラミングを学ぶ時間は無いと言おうことを正当化するために使うことができます。同様に、”私は直線を引くことはできません”という言い方は、”デベロッパー”にはグラフィックの基本やモーショングラフィック、ユーザーインターフェイスのデザインを学ぶ時間が無いということを正当化するための言い訳として使うことができます(一般的に信じられているのとは逆に、優秀なグラフィックデザイナーやモーショングラフィックデザイナーは、イーゼルや鉛筆では印象的な直線を描くことはできません。同様に、私のしっている才能あふれるアーティストの何人かも、そこそこのユーザーインターフェイスをデザインすることもできません。)

そうではなく、個人的なレベルでみなさんは”アーティスト”という肩書きを受け入れ、その肩書を携行できる権利を求めるべきなのです。その権利を得ると皆さんの仕事のやり方は大きな影響を受ける事になりますが、みなさんの作成物にはさほど影響しません。旅の目的地は仕事を完璧に仕上げるところにあるのです。

好むと好まざるにかかわらず、わたしたちは現代のアーティストです。デジタルメディアで満たされたこのクレイジーですばらしいコングロマリットが私達のイーゼルであり、パレットであり、絵筆なのです。わたしたちは美しいものや示唆にとんだもの、他に影響をおよぼすものを生み出すことができます。そして過去の時代よりも多くの方法で多くの人びとのっ子ろを動かすことができるのです。

わたしたちのメディアは広大で、形状やコントラスト、複写、カラー、印刷に充填をおいたグラフィックデザインや、フレーミング、編集、合成が、アニメーターの意図や表現のつまった道具箱のように、また作家や監督、俳優が生み出す芸術のように動作するモーショングラフィックデザイン、ユーザーインターフェイスデザインと情報アーキテクチャ、そしても中でもいちばん新しく、まだ芸術形式とは認められていないプログラミングなど、多くの事柄を包んでいます。

しかしプログラミングは芸術形式なのでしょうか?写真や映画は、絵画や操り人形、演劇が芸術形式であるのなら、芸術形式といえるのでしょう。
写真の技術が開発されたとき、それは技術が到達した見事な成果であると歓迎されましたが、それだけのことでした。写真は現実を捉える技術的な行為であると見なされたのです。それから150年以上たって、わたしたちは今日、主観的な表現や芸術表現の手段として写真が表す意図をくみとることができます。
私達が映画を、現実の絶対的、客観的な断片として、しかし芸術性の欠けた記録として目撃したのはわずか100年前です。今日わたしたちは映画の客観的な特質や、名匠の作品とホームムービーを分ける多くの事柄を心得ていますが、それは最初からそうであったわけではありません。類とオーギュストのルミエール兄弟がリヨン駅に機関社が到着するフィルムを上映した時、それを見た人々は、機関社が突進してくると思い込み恐怖のあまり逃げ出してしまいました。今ではわたしたちの映画に対する理解はもっとふかまっており、私達は映画の”読み方”を知っています。しかし映画通にはなったのですが、プログラミングに関してはまだそこまで理解が深まっていません。

アーティストと職人を分ける魔法の線があります。それは創造性のひらめきによる線なのですが、苦心惨憺して切り拓く線で、尽きることのない情熱やエネルギー、一意専心の積み重ねによって初めて着想できる線です。アーティストは同時に畏敬の年を起こさせ、経験を分け与え、他人の感情を高ぶらせる才能をみなぎらせています。絵画や彫刻、建築の名匠にアーティストの呼び名が用意されたという事実からみれば、私達は芸術を構成するものは何で、なぜその名匠がアーティストなのかを心得ていることになります。評価の幅は過去よりも広くなっているのです。
今日わたしたちは、プログラミングは純粋に技術的な仕事であるとみなしています。創造性と技術性を分けて語るとき、プログラマーは後者に属します。プログラマーは今日、映画の作成者が前世紀の初頭そうであったように、人目につかないところで懸命に働き、その微妙な芸術性のニュアンスに適切な評価が下される”コード通”の社会の到来を待つアーティストなのです。こんな社会が到来するまで一世紀かかるでしょうか?わたしはそうは思いません。

Keith Petersのようなプログラマ/アーティストのおかげで、私達はプログラミングとビジュアルアートの間に渡された橋を目撃することができます。この端はプログラミングの中の隠れた技術性の理解を社会に広め、その評価を高める役割を果たします。Keithの書くコードは視覚的で生き生きとしており、躍動しながら呼吸をして、成長し、先を全く予測できないほどにユニークな、素晴らしい方法で変化します。変数やステートメント、ループ、メソッド、数々のクラスは見る者の感情に訴え、日常の体験を超えた全くアタtらしい光と音で構成された世界の発見へと導いてくれます。

本書のオリジナル版はActionScript2.0で記述されていました。その後Flashのプラットフォームでは、ActionScript3.0という新しいスクリプト言語とFlashPlayer9への新しい仮想マシンの導入という大きな変革がもたらされました。この改良は新しい可能性の世界を切り開くもので、わたしは、Keithがこの新しいテクノロジーを使って「doundation ActionScript Animation: Making Things Move!」に修正を加えると聞いたとき、非常に興奮しました。とは言え、そのワクワクするような技術や新しい本のことはさておいても、一番重要なことを忘れてはいけません。
本書は芸術に関する本なのです。
プログラミングは新しい、エキサイティングな芸術形式で、毎日のように人々の目前で成長し、関連性を深め、評価を高めています。どんな技術形式にせよそれを学ぶ最善の方法は修行を罪、師匠のもつ貴重な体験を共有することです。本書では、本書の師匠が芸術的なプログラミングの旅へと皆さんを導いてくれます。これはKeithが皆さんのとなりに座っている環境の次に恵まれた環境です。本書は発見の旅への案内役を果たすのです。
駆け出しのアーティストはFlashマスターの仲間入りを果たすべく、その準備をはじめなければなりません。
本書に書かれた知識は、皆さん自身の創造的な可能性の扉を開く礎となります。よくいわれるようにあとは10%のいひらめきと90%の努力です。夢見る人は計画し、アーティストは創作します。さあはじめましょう!
みなさんのイーゼルと絵筆は用意されています。ここから皆さんの旅が始まるのです。


僕は卓越したプログラマでもないし、卓越した芸術家でもないから、偉そうなことは言えないのだけれども、僕はこの序文を読んだ時に、軽い衝撃を受けた。
知っていて、それだからこそ嫌いじゃないのであろう情報技術というものに潜在的に抱いていた思いを説明してもらった思いがした。
十分に僕らは論理的で、それでいて芸術的な存在で居ることができる。(すくなくともその素地は与えられている。)

2014年3月19日水曜日

「小さく書いていくことで露になる活字の群れそのもの或いはその生産過程を体験していく自分自身について(1)」



ある作家に対して痛く感激し、触発されるようにして書き溜めた日記(2013528日のもの)の文章を意味の通るように多少修正し、投稿します。先に投稿した実際の文字そのものが、文の内容そのものにも密に関わっています。後半は後日。


///

ロベルト・ヴァルザー(Robert Walser, 1878-1956)というスイス人は、自身を独白することへの羞恥に一生涯囚われ乍らも、文字を書くという行為に依ることは諦めず、結果正常な形では全く筆を取れない人間であった。おそらくは語るべき内容を彼は無数に所有していた。告白と創作への欲求に強烈に駆られていた。しかしそれに対する黙秘の意識や恥じらいが先立ち、彼はバランスを欠いた状態で内面に大きな矛盾を抱え込んでいたのだろう。

microscriptsMikrogrammeという彼が編み出した鉛筆による超微小文字の草稿に出会ったのは先週の話だが、彼はこの誰にも解読できない方法によってのみ「書くこと」を再開することができた。23ミリの小さな糸のようなインクのしみは、まさしく私自身が呪物的(fetisch)に異常に共鳴し、興奮してしまうような文字、ことばの破片であり、見られたくも語りたくもないことに対する創作の熱をしかし密かにどこかで発散させたいと願っている、相反する、分裂した自分の思いと見事に重なるものがあった。ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin, 1892-1940)が「もう一人の」小文字書きであったという事実は、彼が独自に抱えていた思想の形成そのものの特徴を直接方向付けるものでもあり、彼のアーカイヴに見られるドイツ語によるメモ書きはまさしく絶え間なく降り注ぐ「活字の吹雪(Gestöber der Lettern)」を思わせるに相応しい。文字はこのような方法で書かれるとるとき、微細な塵のように群を成し襲いかかってくるようなものとしてその本来の正体を露にする。

ヴァルザーもベンヤミンも、今私が、ここまで小さな文字をしかも日本語という別の言語で、自身の筆跡に感化され小文字を書き出していることを知ったらどう思うだろうか。「書く」という動作は、その瞬間においては身体的に動きのある出来事であり、ことばが液化してまさにペン先からほとばしっている(まさに今この)現場は、副次的な処理過程では全くなく、とても不可解で驚くべき活動として捉えられるべきである。そしてまたこの「剥片(はくへん/Flocke)は、果たして書かれるために書かれるだけでなく、読まれるためにも書かれているものなのだろうかという疑念が、今まさにこの「書く」という行為を通して自分自身に生じている。小さなシミとして何ふりかまわず自分の着想をなぐり書いておくこと。力みも生じず、気負うものもなく誰のことも気にせずに書くこと。否、ここまで尽くしても自分はこの胸のヒメゴトをまだ語ることはできない。ヴァルザーと彼の偉業を知ったとき、彼ほどこうした感情の動きについて究極的な所まで突き詰め切った人はいないのではないかと予感した。


文字をペンによって書く、という行為は今やとても衰退してきていて、——これに関しては、文字を早く「打つ」達人という形なり、なにか別の形によって人間はその未開の能力をいつでも垣間見せ得るという点で必ずしも自分は悲観的なだけではないにしても――サルトルが本の中でインクのシミにむきだしの実存が見出されるのだといくら読み手に語ったとしても、これからは彼のこの驚嘆はどこまで読者にとって切実に「不気味なもの(unheimlich)」として響くのだろうか。

つづく

「小さく書いていくことで露になる活字の群れそのもの或いはその生産過程を体験していく自分自身について(本体)」


カラフル☆万年カレンダー

もう三ヶ月ぐらい前にとある課題で作ったもの
期限迫って出力の方法がひどい。実装時間3~4時間。
初め普通に縦に表示させて書いて、そこから年間表示にするのに手間取った。
シェルのcalコマンドのソースはどこにありますかね。

Ruby環境前提で、下のソースを.rbで保存して、
$ruby hoge.rb
してね。からふるからふる。



-------------------cal.rb-----------------

# -*- coding: utf-8 -*-
##leap method##############
def leap(y)
if !( y % 100 == 0 )&&( y % 4 == 0)
l=1
else
l=0
end
return l
end
#################
####Cal Class####
#################
class Cal
def initialize(mput,yput,lput)
m = mput
@m = mput
@y = yput
@l = lput
@c = 1
end
def zeller
d = 1
m = @m
y = @y
#adjust jan,feb
if m<=2
m += 12
y -= 1
end
##zeller function
h = ((d+(26*(m+1))/10)+y%100+((y%100)/4)+(5*(y/100))+((y/100)/4))%7
if h==0
h=7
end
return h
end
##daymax method###########
def daymax
m = @m
l = @l
 date = Array.new(10)
 case m
   when 2
   if l==1
     for i in (1..29)
       date[i]= i
     end
   end

   if l==0
     for i in (1..28)
       date[i]= i
     end
   end
   when 4,6,9,11
     for i in (1..30)
       date[i]= i
     end


   when 1,3,5,7,8,10,12
     for i in (1..31)
       date[i]= i
     end
   end
return date
end
## put line methods  ########
def putl1
 ##color=>White
printf "\e[37m============================" ##l1 28行
end
def putl2
if @m >=10
printf"month:#{@m}                    " else
printf"month:#{@m}                     " ##l2 21spaces
end
end
def putl3
printf"\e[31m Sun\e[37m Mon Tue Wed Thu Fri\e[34m Sat\e[37m"
end
def putl4
printf"----------------------------" ##l4
end
def putl5
makel5(daymax, zeller)
end
def putl6
makel6(daymax, zeller)
end
def putl7
makel7(daymax, zeller)
end
def putl8
makel8(daymax, zeller)
end
def putl9
makel9(daymax, zeller)
end
def putl10
makel10(daymax, zeller)
end

##Make Line Methods l5~l9 ####
def makel5(date, h)
 l5 = Array.new(7)
 k = 1
 while k<h do
   l5[k] = "    "
   k += 1
 end
 while k <= 7 do
   l5[k] = date[@c]
   k+=1
   @c += 1
 end
 for q in 1..7
  if q ==1
  printf("\e[31m%4s\e[37m",l5[q])
  elsif q==7
  printf("\e[34m%4s\e[37m",l5[q])
  else
    printf("\e[37m%4s",l5[q])
    end
   end
end
def makel6(date, h)
 l6 = Array.new(7)
 k=1
 while k <= 7
   l6[k] = date[@c]
   k+=1
   @c += 1
 end
  for q in 1..7
  if q ==1
  printf("\e[31m%4s\e[37m",l6[q])
  elsif q==7
  printf("\e[34m%4s\e[37m",l6[q])
  else
    printf("\e[37m%4s",l6[q])
    end
   end end
def makel7(date, h)
 l7 = Array.new(7)
 k=1
 while k <= 7
   l7[k] = date[@c]
   k+=1
   @c += 1
 end
  for q in 1..7
  if q ==1
  printf("\e[31m%4s\e[37m",l7[q])
  elsif q==7
  printf("\e[34m%4s\e[37m",l7[q])
  else
    printf("\e[37m%4s",l7[q])
    end
   end end

def makel8(date, h)
 l8 = Array.new(7)
 k=1
 while k <= 7
   l8[k] = date[@c]
   k+=1
   @c += 1
 end
  for q in 1..7
  if q ==1
  printf("\e[31m%4s\e[37m",l8[q])
  elsif q==7
  printf("\e[34m%4s\e[37m",l8[q])
  else
    printf("\e[37m%4s",l8[q])
    end
   end end

def makel9(date, h)
 l9 = Array.new(7)
 k=1
 while k <= 7
   l9[k] = date[@c]
   k+=1
   @c += 1
 end
  for q in 1..7
  if q ==1
  printf("\e[31m%4s\e[37m",l9[q])
  elsif q==7
  printf("\e[34m%4s\e[37m",l9[q])
  else
    printf("\e[37m%4s",l9[q])
    end
   end end
def makel10(date, h)
 l10 = Array.new(7)
 k=1
 while k <= 7
   l10[k] = date[@c]
   k+=1
   @c += 1
 end
  for q in 1..7
  if q ==1
  printf("\e[31m%4s\e[37m",l10[q])
  elsif q==7
  printf("\e[34m%4s\e[37m",l10[q])
  else
    printf("\e[37m%4s",l10[q])
    end
   end end
end


##main##
puts "input the year"
y = gets.to_i
l = leap(y)
jan = Cal.new(1,y,l)
feb = Cal.new(2,y,l)
mar = Cal.new(3,y,l)
apr = Cal.new(4,y,l)
may = Cal.new(5,y,l)
jun = Cal.new(6,y,l)
jul = Cal.new(7,y,l)
aug = Cal.new(8,y,l)
sep = Cal.new(9,y,l)
oct = Cal.new(10,y,l)
nov = Cal.new(11,y,l)
dec = Cal.new(12,y,l)


jan.putl1; printf"=";
feb.putl1; printf"=";
mar.putl1; printf"=";
puts
jan.putl2; printf"|";
feb.putl2; printf"|";
mar.putl2; printf"|";
puts
jan.putl3; printf"|";
feb.putl3; printf"|";
mar.putl3; printf"|";
puts
jan.putl4; printf"|";
feb.putl4; printf"|";
mar.putl4; printf"|";
puts
jan.putl5; printf"|";
feb.putl5; printf"|";
mar.putl5; printf"|";
puts
jan.putl6; printf"|";
feb.putl6; printf"|";
mar.putl6; printf"|";
puts
jan.putl7; printf"|";
feb.putl7; printf"|";
mar.putl7; printf"|";
puts
jan.putl8; printf"|";
feb.putl8; printf"|";
mar.putl8; printf"|";
puts
jan.putl9; printf"|";
feb.putl9; printf"|";
mar.putl9; printf"|";
puts
jan.putl10; printf"|";
feb.putl10; printf"|";
mar.putl10; printf"|";
puts


apr.putl1; printf"|";
may.putl1; printf"|";
jun.putl1; printf"|";
puts
apr.putl2; printf"|";
may.putl2; printf"|";
jun.putl2; printf"|";
puts
apr.putl3; printf"|";
may.putl3; printf"|";
jun.putl3; printf"|";
puts
apr.putl4; printf"|";
may.putl4; printf"|";
jun.putl4; printf"|";
puts
apr.putl5; printf"|";
may.putl5; printf"|";
jun.putl5; printf"|";
puts
apr.putl6; printf"|";
may.putl6; printf"|";
jun.putl6; printf"|";
puts
apr.putl7; printf"|";
may.putl7; printf"|";
jun.putl7; printf"|";
puts
apr.putl8; printf"|";
may.putl8; printf"|";
jun.putl8; printf"|";
puts
apr.putl9; printf"|";
may.putl9; printf"|";
jun.putl9; printf"|";
puts
apr.putl10; printf"|";
may.putl10; printf"|";
jun.putl10; printf"|";
puts


jul.putl1; printf"|";
aug.putl1; printf"|";
sep.putl1; printf"|";
puts
jul.putl2; printf"|";
aug.putl2; printf"|";
sep.putl2; printf"|";
puts
jul.putl3; printf"|";
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}
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覚書

ドイツ語による命題群: A1,A2,....An

命題群の連関によって形成される全体の文章 : ∪[1_n] Ai = G (命題群Aの和集合)


日本語による命題群: B1,B2,...Bm
命題群の連関によって形成される日本語全体の文章: ∪[1_m] Bk = J (命題群Bの和集合)

本来"語られるべき思想の本質"は、G ∩ J (GとJの積集合) の形として現れるのではないのか?
(というか原理的には、G∩Jにしか到達し得ないよね。日本語話者の僕らは)

さらに、

G,Jに含まれる各要素間のミクロな齟齬(統語的齟齬)
は生じたとしても、その集合たるGとJの間のマクロな齟齬(意味論的齟齬)
は最終的には起き得ないように思う。

δが統計的に有意になるサンプルの数だとするならば、
n,m < δ以下の場合(サンプルが有意な数よりも少ない場合)、確かに上記のようなGとJの齟齬は起きるかもしれない。

しかし、300ページを超えるような量を持つような文章において、我々は「意味論的齟齬が起きないように」読んでいくのであって、
GとJの齟齬が起きないような(すなわちこれがGとJの積集合)論に、収斂していくのではないか?


ドイツ語の原典にあたり、ドイツ語と日本語の統語的な齟齬を埋めていく作業は、必要で、意味のあることだと思う。
ただしそれは、起きる必要のない、小さな意味論的齟齬を未然に予防するための措置なのであって、
それをしないことによって、全く僕達が彼らの思考に追い付くことができないとは考えない。

こと体系だった思考の集合として存在することを志向する哲学において、言語的な可換性は思想家の望むるところであるはずだし。


数多の爆散を繰り返しながら、それでもこの戦争はいつか終わるはずだ、と彼の人は進む。

本当の戦線は文字と文字のその間隙に。終わることなき戦いに、盲目の信仰を以て臨め。


匿名でやってたブログから転載。無意味な文章かつ有意な数学的構造も持ちあわせていないのであしからず。

2014年2月23日日曜日

書評:マイケル・サンデル著(鬼澤忍訳)『それをお金で買いますかー市場主義の限界』(早川書房、2012年)


―はじめまして。東京都在住の「20代男性」と申します。経済学・経済史に関心があり、専門に勉強しています。まだまだ不勉強ではありますが、これから主として社会科学に関する著書、社会経済に関する新聞記事等に関するレビューを中心に投稿していきたいと思います―


 初投稿の今回は、マイケル・サンデル著(鬼澤忍訳)『それをお金で買いますかー市場主義の限界』(早川書房、2012年)[原題=What Money Can't Buy : The Moral Limits of Market]に関する書評である。

 筆者のサンデル氏は世界各国で大ベストセラーとなった『これからの「正義」の話をしよう』でよく知られている。本来であれば、同氏の代表作である同書と関連付けながら、書評を書くべきであろう。ところが、申し訳ないことに評者である私は同書をまだ読んでおらず、評者としては適格とは言えないかもしれない。この点については、差し当たりご了承願いたい。
 
 『これからの「正義」の話をしよう』は、日本では2010年5月に刊行され、道徳哲学を主題としながらも、同年、日本経済新聞「エコノミストが選ぶ ベスト経済図書10」(2010年12月26日付 朝刊19面)で2位にランクインし、日本の経済学者からも強い関心が寄せられていた。
 そのサンデル氏が、道徳哲学の観点から、ついに、経済学に直接モノ申す、ということであるから、我々経済学を専攻する人間としては読まずにいられない訳である。

 前置きが長くなってしまったが、以下が本書の構成である。


  • 序章―市場と道徳
  • 第1章 行列に割り込む
  • 第2章 インセンティブ
  • 第3章 いかにして市場は道徳を締め出すか
  • 第4章 生と死を扱う市場
  • 第5章 命名権

 序章では、(アメリカにおける)刑務所の独房を格上げする権利や、インドの代理母による妊娠代行サービスを金銭で購入できるなど、ショッキングな事例を提示することによって、現代が「ほぼあらゆるものが売買される時代」(p.15)であり、「過去30年にわたり、市場―および市場価値―が、かつてないほど生活を支配するようになってきた」(同頁)ことが最初に示されている。

 筆者はそのような社会に対し、道徳哲学の立場から問題提起を行っている。その根拠として、①不平等にかかわるもの、②腐敗にかかわるもの、という2点が挙げられている(p.19)。

 ①では、貧富の差が問題視されている。とは言っても、奢侈品や、与えられる余暇や、その過ごし方といった格差はさほど問題でなく、重要なのは「政治的影響力、すぐれた医療、犯罪多発地域ではなく安全な地域に住む機会、問題だらけの学校ではなく一流学校への入学など」(同頁)といった、民主主義や生存といったレベルでの不平等が特に問題であるとされている。

 ②では「市場はものを分配するだけでなく、取引されるものに対する特定の態度を表現し、それを促進する」(p.20)とあり、事例として「新入生となる権利を最高入札者に売れば、収益は増えるかもしれないが、大学の威厳と入学の名誉は損なわれる」(同頁)ことなどが挙げられている。

 以上を踏まえて、筆者は経済学者に対する批判を提示しつつ、本書の主題を述べている。少々長くなるが、以下に引用したい。


―経済学者はよく、市場は自力では動けないし、取引の対象に影響を与えることもないと決めつける。だが、それは間違いだ。市場はその足跡を残す。ときとして、大切にすべき非常的価値が、市場価値に押しのけられてしまうこともあるのだ。(p.20)
 
―もちろん、大切にすべき価値とは何か、またそれはなぜかという点について、人々の意見は分かれる。したがって、お金で買うことが許されるものと許されないものを決めるには、社会・市民生活のさまざまな領域を律すべき価値は何かを決めなければならない。この問題をいかに考え抜くかが、本書のテーマである。(pp.20-21)


 筆者の述べる通り、現代の社会は様々な局面に対して、市場という装置を用いることで、生活をより便利なものにするとともに、様々な問題に対処しようとしている。
(すぐに頭に思い浮かぶ例として、工場からの有害物質の排出など公害という「外部不経済」に対し、排出権取引制度による市場経済への「内部化」などがある)

 もちろん市場経済が、21世紀の現在においても最も信頼すべき社会制度であることに、反論の余地は無いであろう。
(例えば、市場経済と計画経済という異なった制度を採用した韓国と北朝鮮の圧倒的な経済格差からもそれは明らかである)

 だが「市場」を盲信し、ただ演繹的かつ盲目的に、それを現実の様々な問題に適用することは、上述のような弊害をもたらす。
 筆者は「問題を解決するには、それらの善の道徳的な意味と、その価値を測るのにふさわしい方法を、問題ごとに議論する必要がある。」(p.22, 傍線は評者)と述べているが、ここから評者が学ぶことは大きかった。

 実は、筆者の核となる主張はこの序章で殆ど述べ尽くされており、第1章から第5章は、そのほとんど全てが、主として現代の(アメリカを中心とした)社会におけるケーススタディに充てられている。(当然そのような構成になることは、先の引用からも明らかであろう)

 学部の2年生の一般教養で倫理学を学んだ私としては、てっきり倫理学・道徳哲学における議論が援用されつつ、様々な現実の問題に切り込んでいくことを期待してしまったが、広く一般人向けに書かれた本のためか、筆者のスタンスかは定かではないが、そうした記述は見られなかった。

 だが、第1章から第5章が単なる事実の羅列かと言うと、決してそうではない。そこはさすがのサンデル氏である。評者は次の2点を高く評価したい。


  1. 標準的な経済学の教科書の記述や、ゲイリー・ベッカー氏、フレッド・ヒルシュ氏ら経済学者の言説を引用しながら、経済学に関して内在的な議論・批判を行っている。
  2. 膨大な事例が持ち出されているが、各々にきちんと脚注がついており、新聞記事などの出典が示されている。

 まず上記1.についてであるが、いわゆる「主流派経済学」を批判する日本人の新書の類では、ろくに相手の領域も勉強せず、自分なりの「仮想敵国」を構築し、都合が良いように批判を行っている本が散見される。
 しかし、筆者の手法は異なる。謝辞で、大学の同僚のグレゴリー・マンキュー氏を自身の授業に招き、議論を重ねたことを明らかにしているように、自ら経済学に歩み寄り、内在的な批判を行おうとしているのだ。
 ここにその全て挙げる余裕は無いため、詳しくは本書を参照されたいが、興味深い例をここに一つ掲げる。それは、ボランティアなどの社会活動に対し、市場なインセンティブやメカニズムを導入し、金銭を提供した場合、その行動が増えるのではなく減るというものである(第3章)。ここで、次の事例を見てほしい。


―全米退職者協会はある弁護士団体に、1時間あたり30ドルという割引料金で、貧しい退職者の法律相談に無料で乗ってくれるかどうかをたずねた。弁護士団体は断った。そこで退職者協会は、貧しい退職者の法律相談に無料で乗ってくれるかどうかをたずねた。今度は弁護士団体も承諾した。(p.172)


 筆者はこの現象を、47歳という若さで亡くなったイギリスの経済学者ヒルシュ氏のいう「商品化効果」によって説明する。すなわち、こうしたケースにおける金銭の提供は、「内因的動機(たとえば道徳的信念や目の前の課題への関心)」を「締め出す」という「腐食作用」を有しているというのである。これは最も基本的な経済学の法則の一つである「金銭的インセンティブを増やせば供給も増える」の逆を意味する。
 このように筆者は、市場メカニズムがもたらす「腐敗」のプロセスを明らかにしながら、経済学の想定とは異なる、重要な例外を提示しているのである。また同章では、贈り物に関する議論において、ミクロ経済学における「シグナリング」に対し疑義を呈するなど、興味深い主張が数多く見られる。

 次に、上記2.についてであるが、注付けくらい高校生や大学生でもできるだろうと呆れられてしまうかもしれないが、日本の一般書や新書で、これがきちんとできていないものも多いのではないだろうか。すなわち、自分の知っている事実を、ただ単に思いつきで、並べているような本の類である。

 ところが本書の脚注は、総数338にも及ぶ。ここからは、経済学や社会学、歴史学の実証家としてのサンデル氏の一面を評者は感じずにいられない。

 特に面白かったのは第4章「生命保険の道徳の簡単な歴史」(pp.203-210)である。ここで筆者は、歴史的にみて、多くの国で生命保険は道徳的な観点からタブー視されており、19世紀半ばまでヨーロッパ諸国に生命保険会社が存在せず、日本でも最初の生命保険会社の登場は1881年のことであったと述べている(評者注:日本で最初の生命保険会社は明治生命保険である)。ところがイギリスは例外であり、17世紀末ロンドンのロイズ・コーヒーハウスで、船主、仲介業者、保険業者による賭け事が始まり、それが生命保険の起源となったということである。本書の主題からは脱線するが、生命保険の歴史というそれ自体、経済史、思想史の観点から研究するのは面白そうだと感じた。


 以上は限られた箇所のみの紹介であり、第3章・第4章に偏った内容紹介となってしまったが、評者の時間的・能力的限界もあり、これをもって本文の書評に代えさせていただきたい。

 それでは、本書を読み終わっての感想を述べたい。まず一番痛感したのは、学問をする上で、あらゆる価値観から自由で、中立的な立場に立つことの難しさである。
 経済学が社会科学である以上、あらゆる国家、宗教、民族、世代等々の信条・信仰から自由であり、客観的な議論ができるというように、評者を含め、日常考えている人は多いのはでないか。しかし、それがややもすると、「市場信仰」という別の信仰に繋がっている可能性が大いにあり得るのだ。

また次に、本書のような、他分野を専門とする研究者からの経済学への批判は、大変価値があることだと筆者は感じた。
 もちろん、本書のような批判が存在するからといって、直ちに経済学が無意味なものと化す訳ではないし、市場の分析や制度設計に関する議論は今後も継続して行われるべきである。しかし、そうした中で抜け落ちる、道徳的な議論や、経済学それ自体が持つ矛盾に関して、重要な警鐘を鳴らしたのが本書であるといえよう。本書は経済学を学ぶもの者にとって必読の書であるとともに、学問の領域を越えた議論の1つのモデルケースとして、多くの社会科学者を学ぶ者に読まれるべきである。

 また、戦後史に関心がある評者としては、本書は「1990年代論」としても興味深かった。どうやら筆者の問題視する市場主義の広範な範囲に渡る浸透は、80-90年代、急速に進んだようである。この時期は、評者が生まれ、今日まで生きてきた時代とも完全に合致する訳だが、我々の世代が育った時代は、歴史的に見て、どのような局面にあったのだろうか。数十年後、ぜひ歴史を振り返ってみたい時代である。

 最後に、本書を読み評者が有した、ambivalentな感覚について記して拙稿を閉じたい。少年時代、熱心な野球ファンであったという筆者によると、かつてのアメリカの球場では次のような光景が広がっていたという。


20世紀の大半の期間、球場は企業幹部が労働者と並んで座り、ホットドッグやビールを買うために誰もが同じ列に並び、雨が降れば金持ちも貧しい人も等しく濡れる場所だった。(p.244)


しかし、ここに変化の兆しが訪れる。


ところが、ここ数十年で事態は変わった。フィールドをはるかに下に見下ろすスカイボックス・スイートの登場によって、富裕階級や特権階級と、下のスタンドにいる庶民が隔てられてしまったのだ。(pp.244-245)


 かつてのアメリカの球場の光景は、おそらく日本にも当てはまるだろう。確かに、こうした異なる階級が、束の間ではあるが、試合中は楽しい時間を共にするという「共同体」的な光景は微笑ましく、美しい。
 しかし、貧しい家庭の少年が、「将来はスカイボックスに座れるくらい、お金持ちになるんだ」と夢見て、将来に向けて努力するのが果たして悪いことなのだろうか。

 果たしてどちらが望ましいのか。評者は、その答えは当面出せそうにもない。(完)


参考文献

経済学に馴染みの無い読者は、本書を読む前に


  • N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー経済学1 ミクロ編(第3版)』または
  • 同上『マンキュー経済学2 マクロ編(第3版)』
(いずれも足立英之ほか訳、東洋経済新報社、2014年)


のⅠ部・Ⅱ部を通読しておくと良いかもしれない。
また、面白い事例を元に、経済学者の基本的な思考法を叙述したものとして、


  • スーティヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー『ヤバい経済学(増補改訂版)』(望月衛訳、東洋経済新報社、2007年)

がある。これらを読むことで、経済学の基本的な考え方と対比させながら、本書を読むことができるだろう。



論文をハイパーテキストで書いてみたら、の話。

最近構成員の海外遠征とかもあって、停滞しているところでもあるのですが、
ここ最近哲学書の読書会なるものをですね、ルームメイトその他何名かでやってるんですね。

テクストはフッサールの「論理学研究」。

なんでフッサールになったかっていうと、

僕自身は計算機科学やら、数学やら、物理学やら、それ自身も大した知識ではないけれど、割と超理系です。というか、理系の中でも、理論好きです。(一言に理系と言っても、理論方面の人と、実証方面の人で大分精神性違うのです。)でしかも、言語とか、認知科学とかに興味があるから、当然哲学も好きなんですわ。

読書会の発起人たるzweiくんは、ドイツ語の勉強をしていて、その根底には、哲学、文学の興味があるらしいんだ。研究のテーマはドイツロマン主義?関連。僕の中では、"ザ・ハードコア・人文屋さん"。


二人共哲学好きなのは変わらないんだけど、その哲学というジャンルが多様化していくのと歩調を合わせるように、より現代的な思想に近づくほど、二人の普段興味がある思想は結構離れているんですね。



そんなこんなで、ロマン的なものと、論理的なものの中間点として位置する、20世紀初頭という哲学史的にも分水嶺に当たる時期の、このテクストが一応選ばれたみたいなんですよ。




さてさて、僕自身は哲学が本業でもないし、ドイツ語が読めるわけでもないから、基本的には丸腰で、書に当たるわけですな。
これが難しいのなんの。

普段本当にヌルい文章(リーダビリティが高い、という意味ではいいことだけど)しか読んでいないんだな、ということを痛感いたす次第でありまして、

文と文の、単語と単語の、接続、修飾関係をきちんと追いかけないと、

本当に弾かれるように、まったく頭に入ってこない。

なんとか、受験時代に培った、現代文の分解のノウハウと、普段のマーケットリサーチの際の資料収集のノウハウなど、総動員して読み進めて行くわけですが、


僕自身はどうやって読み進めてるかって言うと、
普段やってることの延長か、どんどんデジタルな文書にしていくわけですわ。
ていうかGoogle Driveにどんどんドキュメントを作っていくんですわ。Google様様ですわ。

まず全体の文章を文字起こしして、わからない単語や、意味不明なつながりを分解して、自分の言葉で換言して、と。

そんで、哲学史の体系みたいなものが僕の頭の中には本当に霞ほどしか入っていないので、どんどんその文書作成の隣でブラウザで調べ事するわけです。Wikipediaとか。

で、単語や、文書内に、どんどんリンクを貼っていくの。



まぁ僕は学者ではないので、特に深い論文とか書かないわけですよ。

だから、別に論文の新しい形態がどうのこうのとか、考える必要ないんだけどね、

論文とか、ハイパーテキストで書けばいいと思うんですよ。


科学系の論文じゃない時に、それを読もうとするとき一番の障害になるのって、そこで使われるタームや概念が、読者側にある程度の水準以上のものが求められてるからじゃないですか。


そういうの、リンク貼れば、全部あとはWeb全体の無責任な情報に、任せられる。


いや、そこの責任の担保のために、きちんと論文の引用のプロトコルが決まってるのは判るんだけど。

本来の学問の本質って、「考える」ことのほうにあるのであって、でしかも、なるべくその参入障壁は低いほうが、学問全体の有用性は上がっていくわけじゃん。

で、間違った理論見たいのが流布するとしても、それは自然淘汰的に、改善されていくわけで。




そんなことを最近考えております。

こんなのもあったよ。

http://tractatus-online.appspot.com

のような試み、もっと積極的に取り入れてもいいかもね、的な。

んちゃ

アボジ


2014年2月17日月曜日

ゴルジ














ちなみにオレの生物のノートはちょーすごい


ブログ内にYoutubeの動画の埋め込みページを入れる方法!

programing


みなさんこんにちは!楽しくブログライフ送ってますか^^




今日は、この記事や、この記事のように、Bloggerでの記事内に、Youtubeの動画や、アマゾンの商品紹介リンクなど、外部サイトでのサービスを埋め込みで挿入する方法をご紹介します!







■ブログの記事って、どうやって表示されているの?

ブログに限らず、僕達がこのようにWebサイトを表示するときに、どのような仕組みで表示されているのでしょうか?
ウェブブラウザ←このように、リンクを表示したり、このように文字を太くさせたり、Webでの表示では、普通のテキストよりも幅広い表現ができるようになっています。

実は、この仕組み、マークアップ言語のうちの一つである、HTML (Hyper Text Markup Language)という、通常のテキストに様々な機能を持たせるための仕組みによって、実現されています!

  最近のWebページだと諸々の都合と、単純な見た目の問題から、
こういう仕組みは利用されることは少なくなっていますが、
一度はこのように動く文字列など、見たことがあるのではないでしょうか?
  
上のような文章が動く仕組みも、HTMLの記述によって改変することができます。




■HTMLってなに?

Webデザイナーを養成するために記事を作成しているわけではないので(笑)、HTMLという仕組みが何なのか、どうやって機能しているのか、についての説明は省きますが、HTMLとは、ウェブブラウザ上に、どのようにページを表示させるのかを決定する約束ごとと言っていいでしょう!

<a href="http:// .....  ">リンク</a> のような書き方をして、HTMLは記述されます。

もっとくわしくHTMLや、Webページの作成の方法等知りたい人は、最近はいろいろとネット上でも勉強するツールが揃ってるので、こちらこちらを見てみるといいでしょう!







■さっそくブログにリンクを埋め込もう!

超特急で説明をしているので、いろいろと説明不足の部分が大量にありますが、コーディング自体のレクチャーではないので、まぁいいとしましょう!

今までに見てきたように、世の中に今の時代広く遍く存在するWEBページというのは、基本的な描写の指定は、すべて「HTML」によって記述されています!


もちろん、Facebookや、Twitterといったページも、このブログも、HTMLによって記述されているのです。

最近のブログサービスは、記事のHTMLを執筆者が直接編集できるようになっていて、我々が使っている、このBloggerのサービスでも、HTMLを直接変更することができるようになっています!





上の画像の青字で説明されているボタンをクリックしてみてください!
すると..





上のようなHTMLの編集画面が表示されます!!

あとでこの画面には戻ってくるので、とりあえずここを押すとHTMLの編集ができるようになるんだな、ってことだけ覚えておいてもらえば大丈夫です♪





■YouTubeのリンクの貼り方!

 


それでは、まずはYouTubeの動画のリンクを埋め込む方法を見てみましょう!
YouTubeの動画を見ていて...








この動画....アツいな....
なんて思った時、それをシェアしてブログの記事にしたくなっちゃうこと、あると思います!


こんなときは..すかさず「Share」のリンクをクリック!

もしかすると、ここまでの流れは、Twitterにリンクをシェアしたりする際に、よくやり慣れた作業かもしれません!でも今回重要なのはここからですね!

「Share」のリンクに遷移すると、このような画面になるかと思います!





そして、ブロガーの[B]のマークをクリック!

そうすると、このようなウィンドウが別ウィンドウで開くかと思います!



「HTMLを編集」のリンクをクリック!して、全選択してコピーするなり、メモ帳のようなものにコピーしてください!

(上の画面からでも、ご覧のように、Bloggerの記事の執筆ができます!動画から記事を作成しようとする場合、こちらのほうが早いかもしれません!)








はい、ここで、さっきまで見てたBloggerのページに戻ってきますよ!

前の記事でも紹介してるように、Blogの執筆の際には複数ブラウザ、複数ウィンドウで行き来するのは当たり前です!(慣れてください笑)

それでは、新規記事を作成するとしましょう!

こんな記事を作成したいとして.......






ここで、もうわかりますね。HTMLの編集画面に移ります!








そうすると....













うまくいきましたね!!

今まで見てきたような手順で、YouTubeの動画の埋め込みは完了します!!


是非試してみてください!!




埋め込みページのリンクは、YouTube以外にも、いろいろなWebサービスで、準備されています。是非自分でも調べてみて、色々と試してみてください!

次回は、お小遣い稼ぎになるのかならぬのか!?Amazonアソシエイトのリンクの貼り付け方をご紹介します!

 (記事作成時間 90分程度)

キリン

2014年2月12日水曜日

いぼじ


「身内の中だけでの面白さ」からの脱却

なんだかみなさん全然記事を投下してくれませんが、そんなことはそっちのけで僕はせっせと色々書いてみようと思うわけよ。

僕個人の方向性の提示によって何らかの"色"がついてしまうことが怖いので、本当は発言の頻度を下げたいんだけど、だからと言って黙る、というのもおかしいよね。みたいな昔の議論が頭をかすめたりしつつ。

とりあえず提言的に、僕がなんでこのブログをやろうと思ったか、の経緯とか、それに対する後付けの動機付けとかを考えてみるよ。
考えるより先に手が動くようになったら、敗北だけど、勝利だよね。



それは帰りの地下鉄の車内のことでした。

なんらかの形で新しくコンテンツを配信するメディアを自分の周りで作りたくて、個人で新しい何らかの配信サービスでもつくろうかな、とか考えていたんだけれども、

恒常的になんかコンテンツ作るのってやっぱり大変だよな〜、なんだかんだでWEB上でもきちんと影響力のあるコンテンツサイトって、やはり更新頻度が高いし、複数人がからんで、キュレーションがきちんとかかってるものだもんな〜、俺自身が面白いと思うものなんてたかがしれてるよ〜
って。思って。

たぶん僕がその性根の通りの真性の引きこもりで、周りにお友達が全くいなかったらあれなんだけど、

俺の周りの人たちみんな面白いこと考えている人たちばっかじゃん!すくなくとも恒常的に面白いこと投下してるかどうかはさておき、みんな話に筋があるし!
と思って。あー、そうか、僕らが飲み会で話すようなこと、そのままコンテンツとして作成してみたらどうなるのかな、って思ったのね。

でもう、その場で勝手に思いつきでLINEでメッセージを送って、今に至るわけだ。



ブログなんて書かなくたって、身近なコミュニティの中でおもしろおかしくお話してればいいじゃない、というのも当然の話。でもこれから考えていくように、本質的にそれとは違う作用がこのシステムには期待ができて、それがとても大事なことだと思うんだ。



SNSでの何気ないやりとりが浸透するに連れて、社会全体が、個人個人に対して、「面白くなければならない」という圧力が生じてると思うのよね。それこそ日本だったらmixi以降の時代において。
このへん、広く解釈すると"発話する"という行為一般に関して考えられる問題で、ちょっとおもしろいかな、とは思うんだけど。

でま、その圧力が哲学的に、思想的に抗うべき対象なのかどうかはさておきさ、「一億総コンテンツメーカー」とも言えるようなこの状況にあって、だったらその技能、使わなきゃ損じゃん、って。

でもさ、すべてのこコミュニケーションがそうであるように、TwitterやLINEでの言動って常に発言の対象を限定的に捉えるでしょ。



それで、一つの別の形として、
・コミュニティの構成要素自体は閉じている(リアルでもコンタクトのある人達)
・発言その他コンテンツ自体は外の世界、社会、WEB全体に広く公開されているし、そこに関しても自覚的にはなる
・TwitterやLINEで行われるような断片的な情報ではなく、もう少し情報の体系化が成されている

というようなかたちのシステムが構成できないか考えたのね。

こうすることによって、コンテンツの投下は常に社会を意識して発信されるが、その完成度についての評価は、身内のなかで行われるようなシステムを実装できないか考えたの。
でしかも、ツイッターや、飲み会での会話、のように一時的なものではなく、情報の蓄積として存在でき、更に情報の相互参照性や、自己参照性、後からの再編集が可能な状態にしたかったんだよね。これによって、より自己、(ここでは我々、だけど)のデータベースの洗練化が可能になるわけじゃん。

ていうかこれは広く思想一般、知識一般、文明一般に言えることだけど、個々の議論は小さなことだったとしても、その一つ一つを架橋していく、自己参照的作用が、思想全体の密度を、純度を、重要度を上げてくんだよね。
学問自体が先行研究、論文の引用によって形成されていることを見ても言わずもがな。おもしろいな、と思えるwebサイト、ブログなんかを見ても顕著だよ。どんどん自己引用して発展していくわけじゃん。この話はシュレーゲルの断片の自己引用についての考察で誰かさんも論文にしていたけれども。





自分がプログラマになったから、というのもあるけど、脳内とか、自分の周りの知識(人脈全体で構成される知識)みたいなものが、今まですごく散逸して、ただ思うがままに放り込んでただけだったな、って。

で、別にそれで問題ないんだけどさ、実はその散逸で断片化された情報って、一見全く無意味なモノに見えるけど、意外と整理して再構成しなおしたらその中にけっこう使える有効な"まとまり"を構成することができるんじゃないの、って。ていうかできるよね。僕も、みんなも、たまに、面白いこと言うんだから。






どっかのだれかの言うように、断片でしか表現できないものって確実にあると思うし、断片化されたものの総体としてしかその人の全容って理解し得ないものだとは思うんだけど、

一方で、きちんとまとまった形で表現される何か、の存在を軽視してはならないと思うのね。(それは広く芸術的創作活動だけではなく、このような、実際の人生生活においてもまさに)


"なんらかのまとまったものを創出すること"っていうのは、自己のアイデンティティを固着させていく作用の一端だと思うし、ともするととても近代的な価値観に囚われてるのかもしれないけれど、ブログを書くのは辛いです。でも述べてるように、以下の二つの理由によって、やっぱり軽視するべきではないと思うんだ。

その1
なんだかんだで世の中は近代的価値で回っていて、どうやってもそれとは付き合わざるを得ない

その2
個人が断片化されることは大いに結構、でも、その断片化の部分集合として、仮想的にまとまったことを創出する、っていう次の段階に移行してくのもありじゃん。

ていう。






今後の提言として、

1.積極的に配信することを意識する
何もないところから絞り出していく作業は辛いものだけど、それでもやる

2.配信されるものの精度や、体系的な完成度は取り敢えず度外視する
むしろ積極的に配信することを重視

3.身内で話すように、話す。
2.の延長でもあるんだけど、僕らが、僕らに対して話したい話、で基本的にはいいと思うんだよね。ぼく、みんなのはなし聞きたいもん。

4.既に配信された情報についても常に再編集、洗練を心がける
これによって、取り敢えず出した情報に関する完成度の担保とする

5.わかりきった諸前提についても述べる
一応広く世間に公開されるものになるわけだから、僕らが門外漢同士で会話するときと同様に、話す話の根本を成す諸前提についてもきちんと説明する努力をするべきだと思うんだよね。もちろん1.のほうが優先度高いんだけど。この5.についてもごく当たり前の諸前提にあたるから、自己言及的。

6.身内だけで生じるプロトコルをなるべく排除する
完全に2.と矛盾するような条件だけど、(これは優先度の設定によって巧妙に論理的矛盾は回避されているのだが)
5.と同様に、社会に対して開かれるものだからこそ、一応頭の片隅に身内間でやりとりされる"暗黙のプロトコル(お約束)"は排除していくべきだと思うんだよね。とまれ、身内間での評価、というシステムの設計上、排除しきれないものだけど。


みたいなところを重視したいな、って思うの。たぶん、番号が若いほど優先度が高いと思うよ。ていうかそうだよ。むしろ、この優先順位を順守徹底するぐらいだと思うよ。






なんだか僕が提供するコンテンツのほとんどは、この記事しかり、文章が多くて、それも自分の中でもきちんとまとまっていない情報を、まとめていく、みたいな作業が多くなるかな、と思うんだけど、こういう、言論ベースじゃなくていいと思うの、アウトプットするコンテンツの形態は。それは、動画かもしれないし、絵かもしれないし、写真かもしれないし、プログラムかもしれないし、音楽かもしれないし、なんでもいいとおもうの。

すくなくともそういう配信するコンテンツが多様化していくにつれて、それに対応するような形でWEBのインターフェイス自体も再構成していくとおもうし(それはもちろん全体を構成しなおすことができるようにサーバー運用を始めてからの話だし、運用者側の[暫定で私なのかもだけど]技術的問題もあるけれど)
全体の構成自体に関するフィードバックも常に行われるべきだと思うの。

あくまでこのなんともいえない緩やかなシステムは、"コンテンツ"に一番のプライオリティがあって、配信されるものにとって一番最適な状態に組織自体が常に自己再構成していくような存在になればいいな、って思うね。

だから、とりあえず、なんでも、いいから、なにか、投下してみてほしい。
全くナンセンスで、無意味なものでもいいから、なんらかのアウトプットをしてみる。

それを、どのように構成していくか、どのような価値を持つものか、は、後で考える。

よくわからないものでも、とりあえず、置いてみる。角度を変えてみる。架橋しようとしてみる。自己参照してみる。
そうするといつか、複雑で、多層的で、"とってもむつかしそうな"総体が出来上がる。





別に僕のひとりよがりで動いてることかもしれないし、何言ってんだこいつ、で構わないんだけど、なにか、やらなきゃ、って。きっと。このままだと、無自覚にただの何でもない市民になっちゃうよ、って。
個人のレベルでは、こういうまとまったものを配信する試みって、今までの人生の中で何度も試みてきたことなんだけど(webに限らず)、社会の断片化、自己の断片化に身を任せて、それもありだな、って、すごく楽な方向に行ってた気がするんだよね。

僕は、今までにも話したことあることだけど、僕自身が考えることも、僕の友達が考えることも(それはこの私が選んだ友達でもあるわけだし)、完成度はさておき、おもしろいと思うの。なにかあるとおもうの。社会全体の平均なんかより、ずっとおもしろい水準にあると思うの。
もしも、そういったものが、なんでもない石ころになって、利用されないとしたら、それは、すごくもったいないことだと思うの。

別にそれでもいいんだけど。ていうかそれは全然受け入れてるんだけど。でもさ、もしかしたらさ、なんか起きるかもしれない、可能性があるわけじゃん、百万分の一の確立で、売り物になるレベルのもの産まれるかもしれないじゃん、だから、大きく失敗しない最低限のラインだけは確保しておいて、最低限の心理的コストで、攻撃しかけようよ。的な。

すくなからず、僕が招集をかけた人々って、これから社会一般に対してコンテンツを投下していこうとする人か、それを生業にしないまでも、(少なくとも口では)そういうこと、できたらいいな、って思う人達なわけじゃん。

いきなり、全社会に対して、影響力のあるコンテンツを投下するのは、難しいかもしれない。ていうか、無理だよ。だし、それを意識しようとしたら、身もすくんで、なにもできなくなるわけじゃない。

だから、ぼくは今までに述べてきたような、システムが必要だと思ったの。
配信する対象と、評価をする対象が、非対称な関係が必要だな、って思ったの。
きっとこれは僕らが望んでいたものだと思うの。

わかんない、そういう意味では、学校ってそういう機能の一部を担ってるのかもしれなくて、僕にはそれができなかったからなのかも知れないけど。
そういう意味では私のひとりよがりかもしれないね。嫌ならけっこう。
僕は僕自身に対する小さな抵抗として、どんなに空回りしても、色々やっていこう、と思ってて、そのうちの一つにすぎないから。

もうすっげーダサい。中学生かよ、ってぐらいダサい。ノリにまかせてこういう文章を投下している事自体がダサい。
でも、そのダッセー態度から、正統進化して、世に出せる水準まで引き上げる作業から逃亡してきたのだから、しかたがない。
ダサいのはがまんする。ていうかダサいの許す自分と、許さない自分を共存させることにする。そういう思考のアウフヘーベンができる僕のこのマインドセットは、ダサくない。