2014年2月12日水曜日

「身内の中だけでの面白さ」からの脱却

なんだかみなさん全然記事を投下してくれませんが、そんなことはそっちのけで僕はせっせと色々書いてみようと思うわけよ。

僕個人の方向性の提示によって何らかの"色"がついてしまうことが怖いので、本当は発言の頻度を下げたいんだけど、だからと言って黙る、というのもおかしいよね。みたいな昔の議論が頭をかすめたりしつつ。

とりあえず提言的に、僕がなんでこのブログをやろうと思ったか、の経緯とか、それに対する後付けの動機付けとかを考えてみるよ。
考えるより先に手が動くようになったら、敗北だけど、勝利だよね。



それは帰りの地下鉄の車内のことでした。

なんらかの形で新しくコンテンツを配信するメディアを自分の周りで作りたくて、個人で新しい何らかの配信サービスでもつくろうかな、とか考えていたんだけれども、

恒常的になんかコンテンツ作るのってやっぱり大変だよな〜、なんだかんだでWEB上でもきちんと影響力のあるコンテンツサイトって、やはり更新頻度が高いし、複数人がからんで、キュレーションがきちんとかかってるものだもんな〜、俺自身が面白いと思うものなんてたかがしれてるよ〜
って。思って。

たぶん僕がその性根の通りの真性の引きこもりで、周りにお友達が全くいなかったらあれなんだけど、

俺の周りの人たちみんな面白いこと考えている人たちばっかじゃん!すくなくとも恒常的に面白いこと投下してるかどうかはさておき、みんな話に筋があるし!
と思って。あー、そうか、僕らが飲み会で話すようなこと、そのままコンテンツとして作成してみたらどうなるのかな、って思ったのね。

でもう、その場で勝手に思いつきでLINEでメッセージを送って、今に至るわけだ。



ブログなんて書かなくたって、身近なコミュニティの中でおもしろおかしくお話してればいいじゃない、というのも当然の話。でもこれから考えていくように、本質的にそれとは違う作用がこのシステムには期待ができて、それがとても大事なことだと思うんだ。



SNSでの何気ないやりとりが浸透するに連れて、社会全体が、個人個人に対して、「面白くなければならない」という圧力が生じてると思うのよね。それこそ日本だったらmixi以降の時代において。
このへん、広く解釈すると"発話する"という行為一般に関して考えられる問題で、ちょっとおもしろいかな、とは思うんだけど。

でま、その圧力が哲学的に、思想的に抗うべき対象なのかどうかはさておきさ、「一億総コンテンツメーカー」とも言えるようなこの状況にあって、だったらその技能、使わなきゃ損じゃん、って。

でもさ、すべてのこコミュニケーションがそうであるように、TwitterやLINEでの言動って常に発言の対象を限定的に捉えるでしょ。



それで、一つの別の形として、
・コミュニティの構成要素自体は閉じている(リアルでもコンタクトのある人達)
・発言その他コンテンツ自体は外の世界、社会、WEB全体に広く公開されているし、そこに関しても自覚的にはなる
・TwitterやLINEで行われるような断片的な情報ではなく、もう少し情報の体系化が成されている

というようなかたちのシステムが構成できないか考えたのね。

こうすることによって、コンテンツの投下は常に社会を意識して発信されるが、その完成度についての評価は、身内のなかで行われるようなシステムを実装できないか考えたの。
でしかも、ツイッターや、飲み会での会話、のように一時的なものではなく、情報の蓄積として存在でき、更に情報の相互参照性や、自己参照性、後からの再編集が可能な状態にしたかったんだよね。これによって、より自己、(ここでは我々、だけど)のデータベースの洗練化が可能になるわけじゃん。

ていうかこれは広く思想一般、知識一般、文明一般に言えることだけど、個々の議論は小さなことだったとしても、その一つ一つを架橋していく、自己参照的作用が、思想全体の密度を、純度を、重要度を上げてくんだよね。
学問自体が先行研究、論文の引用によって形成されていることを見ても言わずもがな。おもしろいな、と思えるwebサイト、ブログなんかを見ても顕著だよ。どんどん自己引用して発展していくわけじゃん。この話はシュレーゲルの断片の自己引用についての考察で誰かさんも論文にしていたけれども。





自分がプログラマになったから、というのもあるけど、脳内とか、自分の周りの知識(人脈全体で構成される知識)みたいなものが、今まですごく散逸して、ただ思うがままに放り込んでただけだったな、って。

で、別にそれで問題ないんだけどさ、実はその散逸で断片化された情報って、一見全く無意味なモノに見えるけど、意外と整理して再構成しなおしたらその中にけっこう使える有効な"まとまり"を構成することができるんじゃないの、って。ていうかできるよね。僕も、みんなも、たまに、面白いこと言うんだから。






どっかのだれかの言うように、断片でしか表現できないものって確実にあると思うし、断片化されたものの総体としてしかその人の全容って理解し得ないものだとは思うんだけど、

一方で、きちんとまとまった形で表現される何か、の存在を軽視してはならないと思うのね。(それは広く芸術的創作活動だけではなく、このような、実際の人生生活においてもまさに)


"なんらかのまとまったものを創出すること"っていうのは、自己のアイデンティティを固着させていく作用の一端だと思うし、ともするととても近代的な価値観に囚われてるのかもしれないけれど、ブログを書くのは辛いです。でも述べてるように、以下の二つの理由によって、やっぱり軽視するべきではないと思うんだ。

その1
なんだかんだで世の中は近代的価値で回っていて、どうやってもそれとは付き合わざるを得ない

その2
個人が断片化されることは大いに結構、でも、その断片化の部分集合として、仮想的にまとまったことを創出する、っていう次の段階に移行してくのもありじゃん。

ていう。






今後の提言として、

1.積極的に配信することを意識する
何もないところから絞り出していく作業は辛いものだけど、それでもやる

2.配信されるものの精度や、体系的な完成度は取り敢えず度外視する
むしろ積極的に配信することを重視

3.身内で話すように、話す。
2.の延長でもあるんだけど、僕らが、僕らに対して話したい話、で基本的にはいいと思うんだよね。ぼく、みんなのはなし聞きたいもん。

4.既に配信された情報についても常に再編集、洗練を心がける
これによって、取り敢えず出した情報に関する完成度の担保とする

5.わかりきった諸前提についても述べる
一応広く世間に公開されるものになるわけだから、僕らが門外漢同士で会話するときと同様に、話す話の根本を成す諸前提についてもきちんと説明する努力をするべきだと思うんだよね。もちろん1.のほうが優先度高いんだけど。この5.についてもごく当たり前の諸前提にあたるから、自己言及的。

6.身内だけで生じるプロトコルをなるべく排除する
完全に2.と矛盾するような条件だけど、(これは優先度の設定によって巧妙に論理的矛盾は回避されているのだが)
5.と同様に、社会に対して開かれるものだからこそ、一応頭の片隅に身内間でやりとりされる"暗黙のプロトコル(お約束)"は排除していくべきだと思うんだよね。とまれ、身内間での評価、というシステムの設計上、排除しきれないものだけど。


みたいなところを重視したいな、って思うの。たぶん、番号が若いほど優先度が高いと思うよ。ていうかそうだよ。むしろ、この優先順位を順守徹底するぐらいだと思うよ。






なんだか僕が提供するコンテンツのほとんどは、この記事しかり、文章が多くて、それも自分の中でもきちんとまとまっていない情報を、まとめていく、みたいな作業が多くなるかな、と思うんだけど、こういう、言論ベースじゃなくていいと思うの、アウトプットするコンテンツの形態は。それは、動画かもしれないし、絵かもしれないし、写真かもしれないし、プログラムかもしれないし、音楽かもしれないし、なんでもいいとおもうの。

すくなくともそういう配信するコンテンツが多様化していくにつれて、それに対応するような形でWEBのインターフェイス自体も再構成していくとおもうし(それはもちろん全体を構成しなおすことができるようにサーバー運用を始めてからの話だし、運用者側の[暫定で私なのかもだけど]技術的問題もあるけれど)
全体の構成自体に関するフィードバックも常に行われるべきだと思うの。

あくまでこのなんともいえない緩やかなシステムは、"コンテンツ"に一番のプライオリティがあって、配信されるものにとって一番最適な状態に組織自体が常に自己再構成していくような存在になればいいな、って思うね。

だから、とりあえず、なんでも、いいから、なにか、投下してみてほしい。
全くナンセンスで、無意味なものでもいいから、なんらかのアウトプットをしてみる。

それを、どのように構成していくか、どのような価値を持つものか、は、後で考える。

よくわからないものでも、とりあえず、置いてみる。角度を変えてみる。架橋しようとしてみる。自己参照してみる。
そうするといつか、複雑で、多層的で、"とってもむつかしそうな"総体が出来上がる。





別に僕のひとりよがりで動いてることかもしれないし、何言ってんだこいつ、で構わないんだけど、なにか、やらなきゃ、って。きっと。このままだと、無自覚にただの何でもない市民になっちゃうよ、って。
個人のレベルでは、こういうまとまったものを配信する試みって、今までの人生の中で何度も試みてきたことなんだけど(webに限らず)、社会の断片化、自己の断片化に身を任せて、それもありだな、って、すごく楽な方向に行ってた気がするんだよね。

僕は、今までにも話したことあることだけど、僕自身が考えることも、僕の友達が考えることも(それはこの私が選んだ友達でもあるわけだし)、完成度はさておき、おもしろいと思うの。なにかあるとおもうの。社会全体の平均なんかより、ずっとおもしろい水準にあると思うの。
もしも、そういったものが、なんでもない石ころになって、利用されないとしたら、それは、すごくもったいないことだと思うの。

別にそれでもいいんだけど。ていうかそれは全然受け入れてるんだけど。でもさ、もしかしたらさ、なんか起きるかもしれない、可能性があるわけじゃん、百万分の一の確立で、売り物になるレベルのもの産まれるかもしれないじゃん、だから、大きく失敗しない最低限のラインだけは確保しておいて、最低限の心理的コストで、攻撃しかけようよ。的な。

すくなからず、僕が招集をかけた人々って、これから社会一般に対してコンテンツを投下していこうとする人か、それを生業にしないまでも、(少なくとも口では)そういうこと、できたらいいな、って思う人達なわけじゃん。

いきなり、全社会に対して、影響力のあるコンテンツを投下するのは、難しいかもしれない。ていうか、無理だよ。だし、それを意識しようとしたら、身もすくんで、なにもできなくなるわけじゃない。

だから、ぼくは今までに述べてきたような、システムが必要だと思ったの。
配信する対象と、評価をする対象が、非対称な関係が必要だな、って思ったの。
きっとこれは僕らが望んでいたものだと思うの。

わかんない、そういう意味では、学校ってそういう機能の一部を担ってるのかもしれなくて、僕にはそれができなかったからなのかも知れないけど。
そういう意味では私のひとりよがりかもしれないね。嫌ならけっこう。
僕は僕自身に対する小さな抵抗として、どんなに空回りしても、色々やっていこう、と思ってて、そのうちの一つにすぎないから。

もうすっげーダサい。中学生かよ、ってぐらいダサい。ノリにまかせてこういう文章を投下している事自体がダサい。
でも、そのダッセー態度から、正統進化して、世に出せる水準まで引き上げる作業から逃亡してきたのだから、しかたがない。
ダサいのはがまんする。ていうかダサいの許す自分と、許さない自分を共存させることにする。そういう思考のアウフヘーベンができる僕のこのマインドセットは、ダサくない。

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