2014年2月23日日曜日

書評:マイケル・サンデル著(鬼澤忍訳)『それをお金で買いますかー市場主義の限界』(早川書房、2012年)


―はじめまして。東京都在住の「20代男性」と申します。経済学・経済史に関心があり、専門に勉強しています。まだまだ不勉強ではありますが、これから主として社会科学に関する著書、社会経済に関する新聞記事等に関するレビューを中心に投稿していきたいと思います―


 初投稿の今回は、マイケル・サンデル著(鬼澤忍訳)『それをお金で買いますかー市場主義の限界』(早川書房、2012年)[原題=What Money Can't Buy : The Moral Limits of Market]に関する書評である。

 筆者のサンデル氏は世界各国で大ベストセラーとなった『これからの「正義」の話をしよう』でよく知られている。本来であれば、同氏の代表作である同書と関連付けながら、書評を書くべきであろう。ところが、申し訳ないことに評者である私は同書をまだ読んでおらず、評者としては適格とは言えないかもしれない。この点については、差し当たりご了承願いたい。
 
 『これからの「正義」の話をしよう』は、日本では2010年5月に刊行され、道徳哲学を主題としながらも、同年、日本経済新聞「エコノミストが選ぶ ベスト経済図書10」(2010年12月26日付 朝刊19面)で2位にランクインし、日本の経済学者からも強い関心が寄せられていた。
 そのサンデル氏が、道徳哲学の観点から、ついに、経済学に直接モノ申す、ということであるから、我々経済学を専攻する人間としては読まずにいられない訳である。

 前置きが長くなってしまったが、以下が本書の構成である。


  • 序章―市場と道徳
  • 第1章 行列に割り込む
  • 第2章 インセンティブ
  • 第3章 いかにして市場は道徳を締め出すか
  • 第4章 生と死を扱う市場
  • 第5章 命名権

 序章では、(アメリカにおける)刑務所の独房を格上げする権利や、インドの代理母による妊娠代行サービスを金銭で購入できるなど、ショッキングな事例を提示することによって、現代が「ほぼあらゆるものが売買される時代」(p.15)であり、「過去30年にわたり、市場―および市場価値―が、かつてないほど生活を支配するようになってきた」(同頁)ことが最初に示されている。

 筆者はそのような社会に対し、道徳哲学の立場から問題提起を行っている。その根拠として、①不平等にかかわるもの、②腐敗にかかわるもの、という2点が挙げられている(p.19)。

 ①では、貧富の差が問題視されている。とは言っても、奢侈品や、与えられる余暇や、その過ごし方といった格差はさほど問題でなく、重要なのは「政治的影響力、すぐれた医療、犯罪多発地域ではなく安全な地域に住む機会、問題だらけの学校ではなく一流学校への入学など」(同頁)といった、民主主義や生存といったレベルでの不平等が特に問題であるとされている。

 ②では「市場はものを分配するだけでなく、取引されるものに対する特定の態度を表現し、それを促進する」(p.20)とあり、事例として「新入生となる権利を最高入札者に売れば、収益は増えるかもしれないが、大学の威厳と入学の名誉は損なわれる」(同頁)ことなどが挙げられている。

 以上を踏まえて、筆者は経済学者に対する批判を提示しつつ、本書の主題を述べている。少々長くなるが、以下に引用したい。


―経済学者はよく、市場は自力では動けないし、取引の対象に影響を与えることもないと決めつける。だが、それは間違いだ。市場はその足跡を残す。ときとして、大切にすべき非常的価値が、市場価値に押しのけられてしまうこともあるのだ。(p.20)
 
―もちろん、大切にすべき価値とは何か、またそれはなぜかという点について、人々の意見は分かれる。したがって、お金で買うことが許されるものと許されないものを決めるには、社会・市民生活のさまざまな領域を律すべき価値は何かを決めなければならない。この問題をいかに考え抜くかが、本書のテーマである。(pp.20-21)


 筆者の述べる通り、現代の社会は様々な局面に対して、市場という装置を用いることで、生活をより便利なものにするとともに、様々な問題に対処しようとしている。
(すぐに頭に思い浮かぶ例として、工場からの有害物質の排出など公害という「外部不経済」に対し、排出権取引制度による市場経済への「内部化」などがある)

 もちろん市場経済が、21世紀の現在においても最も信頼すべき社会制度であることに、反論の余地は無いであろう。
(例えば、市場経済と計画経済という異なった制度を採用した韓国と北朝鮮の圧倒的な経済格差からもそれは明らかである)

 だが「市場」を盲信し、ただ演繹的かつ盲目的に、それを現実の様々な問題に適用することは、上述のような弊害をもたらす。
 筆者は「問題を解決するには、それらの善の道徳的な意味と、その価値を測るのにふさわしい方法を、問題ごとに議論する必要がある。」(p.22, 傍線は評者)と述べているが、ここから評者が学ぶことは大きかった。

 実は、筆者の核となる主張はこの序章で殆ど述べ尽くされており、第1章から第5章は、そのほとんど全てが、主として現代の(アメリカを中心とした)社会におけるケーススタディに充てられている。(当然そのような構成になることは、先の引用からも明らかであろう)

 学部の2年生の一般教養で倫理学を学んだ私としては、てっきり倫理学・道徳哲学における議論が援用されつつ、様々な現実の問題に切り込んでいくことを期待してしまったが、広く一般人向けに書かれた本のためか、筆者のスタンスかは定かではないが、そうした記述は見られなかった。

 だが、第1章から第5章が単なる事実の羅列かと言うと、決してそうではない。そこはさすがのサンデル氏である。評者は次の2点を高く評価したい。


  1. 標準的な経済学の教科書の記述や、ゲイリー・ベッカー氏、フレッド・ヒルシュ氏ら経済学者の言説を引用しながら、経済学に関して内在的な議論・批判を行っている。
  2. 膨大な事例が持ち出されているが、各々にきちんと脚注がついており、新聞記事などの出典が示されている。

 まず上記1.についてであるが、いわゆる「主流派経済学」を批判する日本人の新書の類では、ろくに相手の領域も勉強せず、自分なりの「仮想敵国」を構築し、都合が良いように批判を行っている本が散見される。
 しかし、筆者の手法は異なる。謝辞で、大学の同僚のグレゴリー・マンキュー氏を自身の授業に招き、議論を重ねたことを明らかにしているように、自ら経済学に歩み寄り、内在的な批判を行おうとしているのだ。
 ここにその全て挙げる余裕は無いため、詳しくは本書を参照されたいが、興味深い例をここに一つ掲げる。それは、ボランティアなどの社会活動に対し、市場なインセンティブやメカニズムを導入し、金銭を提供した場合、その行動が増えるのではなく減るというものである(第3章)。ここで、次の事例を見てほしい。


―全米退職者協会はある弁護士団体に、1時間あたり30ドルという割引料金で、貧しい退職者の法律相談に無料で乗ってくれるかどうかをたずねた。弁護士団体は断った。そこで退職者協会は、貧しい退職者の法律相談に無料で乗ってくれるかどうかをたずねた。今度は弁護士団体も承諾した。(p.172)


 筆者はこの現象を、47歳という若さで亡くなったイギリスの経済学者ヒルシュ氏のいう「商品化効果」によって説明する。すなわち、こうしたケースにおける金銭の提供は、「内因的動機(たとえば道徳的信念や目の前の課題への関心)」を「締め出す」という「腐食作用」を有しているというのである。これは最も基本的な経済学の法則の一つである「金銭的インセンティブを増やせば供給も増える」の逆を意味する。
 このように筆者は、市場メカニズムがもたらす「腐敗」のプロセスを明らかにしながら、経済学の想定とは異なる、重要な例外を提示しているのである。また同章では、贈り物に関する議論において、ミクロ経済学における「シグナリング」に対し疑義を呈するなど、興味深い主張が数多く見られる。

 次に、上記2.についてであるが、注付けくらい高校生や大学生でもできるだろうと呆れられてしまうかもしれないが、日本の一般書や新書で、これがきちんとできていないものも多いのではないだろうか。すなわち、自分の知っている事実を、ただ単に思いつきで、並べているような本の類である。

 ところが本書の脚注は、総数338にも及ぶ。ここからは、経済学や社会学、歴史学の実証家としてのサンデル氏の一面を評者は感じずにいられない。

 特に面白かったのは第4章「生命保険の道徳の簡単な歴史」(pp.203-210)である。ここで筆者は、歴史的にみて、多くの国で生命保険は道徳的な観点からタブー視されており、19世紀半ばまでヨーロッパ諸国に生命保険会社が存在せず、日本でも最初の生命保険会社の登場は1881年のことであったと述べている(評者注:日本で最初の生命保険会社は明治生命保険である)。ところがイギリスは例外であり、17世紀末ロンドンのロイズ・コーヒーハウスで、船主、仲介業者、保険業者による賭け事が始まり、それが生命保険の起源となったということである。本書の主題からは脱線するが、生命保険の歴史というそれ自体、経済史、思想史の観点から研究するのは面白そうだと感じた。


 以上は限られた箇所のみの紹介であり、第3章・第4章に偏った内容紹介となってしまったが、評者の時間的・能力的限界もあり、これをもって本文の書評に代えさせていただきたい。

 それでは、本書を読み終わっての感想を述べたい。まず一番痛感したのは、学問をする上で、あらゆる価値観から自由で、中立的な立場に立つことの難しさである。
 経済学が社会科学である以上、あらゆる国家、宗教、民族、世代等々の信条・信仰から自由であり、客観的な議論ができるというように、評者を含め、日常考えている人は多いのはでないか。しかし、それがややもすると、「市場信仰」という別の信仰に繋がっている可能性が大いにあり得るのだ。

また次に、本書のような、他分野を専門とする研究者からの経済学への批判は、大変価値があることだと筆者は感じた。
 もちろん、本書のような批判が存在するからといって、直ちに経済学が無意味なものと化す訳ではないし、市場の分析や制度設計に関する議論は今後も継続して行われるべきである。しかし、そうした中で抜け落ちる、道徳的な議論や、経済学それ自体が持つ矛盾に関して、重要な警鐘を鳴らしたのが本書であるといえよう。本書は経済学を学ぶもの者にとって必読の書であるとともに、学問の領域を越えた議論の1つのモデルケースとして、多くの社会科学者を学ぶ者に読まれるべきである。

 また、戦後史に関心がある評者としては、本書は「1990年代論」としても興味深かった。どうやら筆者の問題視する市場主義の広範な範囲に渡る浸透は、80-90年代、急速に進んだようである。この時期は、評者が生まれ、今日まで生きてきた時代とも完全に合致する訳だが、我々の世代が育った時代は、歴史的に見て、どのような局面にあったのだろうか。数十年後、ぜひ歴史を振り返ってみたい時代である。

 最後に、本書を読み評者が有した、ambivalentな感覚について記して拙稿を閉じたい。少年時代、熱心な野球ファンであったという筆者によると、かつてのアメリカの球場では次のような光景が広がっていたという。


20世紀の大半の期間、球場は企業幹部が労働者と並んで座り、ホットドッグやビールを買うために誰もが同じ列に並び、雨が降れば金持ちも貧しい人も等しく濡れる場所だった。(p.244)


しかし、ここに変化の兆しが訪れる。


ところが、ここ数十年で事態は変わった。フィールドをはるかに下に見下ろすスカイボックス・スイートの登場によって、富裕階級や特権階級と、下のスタンドにいる庶民が隔てられてしまったのだ。(pp.244-245)


 かつてのアメリカの球場の光景は、おそらく日本にも当てはまるだろう。確かに、こうした異なる階級が、束の間ではあるが、試合中は楽しい時間を共にするという「共同体」的な光景は微笑ましく、美しい。
 しかし、貧しい家庭の少年が、「将来はスカイボックスに座れるくらい、お金持ちになるんだ」と夢見て、将来に向けて努力するのが果たして悪いことなのだろうか。

 果たしてどちらが望ましいのか。評者は、その答えは当面出せそうにもない。(完)


参考文献

経済学に馴染みの無い読者は、本書を読む前に


  • N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー経済学1 ミクロ編(第3版)』または
  • 同上『マンキュー経済学2 マクロ編(第3版)』
(いずれも足立英之ほか訳、東洋経済新報社、2014年)


のⅠ部・Ⅱ部を通読しておくと良いかもしれない。
また、面白い事例を元に、経済学者の基本的な思考法を叙述したものとして、


  • スーティヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー『ヤバい経済学(増補改訂版)』(望月衛訳、東洋経済新報社、2007年)

がある。これらを読むことで、経済学の基本的な考え方と対比させながら、本書を読むことができるだろう。



論文をハイパーテキストで書いてみたら、の話。

最近構成員の海外遠征とかもあって、停滞しているところでもあるのですが、
ここ最近哲学書の読書会なるものをですね、ルームメイトその他何名かでやってるんですね。

テクストはフッサールの「論理学研究」。

なんでフッサールになったかっていうと、

僕自身は計算機科学やら、数学やら、物理学やら、それ自身も大した知識ではないけれど、割と超理系です。というか、理系の中でも、理論好きです。(一言に理系と言っても、理論方面の人と、実証方面の人で大分精神性違うのです。)でしかも、言語とか、認知科学とかに興味があるから、当然哲学も好きなんですわ。

読書会の発起人たるzweiくんは、ドイツ語の勉強をしていて、その根底には、哲学、文学の興味があるらしいんだ。研究のテーマはドイツロマン主義?関連。僕の中では、"ザ・ハードコア・人文屋さん"。


二人共哲学好きなのは変わらないんだけど、その哲学というジャンルが多様化していくのと歩調を合わせるように、より現代的な思想に近づくほど、二人の普段興味がある思想は結構離れているんですね。



そんなこんなで、ロマン的なものと、論理的なものの中間点として位置する、20世紀初頭という哲学史的にも分水嶺に当たる時期の、このテクストが一応選ばれたみたいなんですよ。




さてさて、僕自身は哲学が本業でもないし、ドイツ語が読めるわけでもないから、基本的には丸腰で、書に当たるわけですな。
これが難しいのなんの。

普段本当にヌルい文章(リーダビリティが高い、という意味ではいいことだけど)しか読んでいないんだな、ということを痛感いたす次第でありまして、

文と文の、単語と単語の、接続、修飾関係をきちんと追いかけないと、

本当に弾かれるように、まったく頭に入ってこない。

なんとか、受験時代に培った、現代文の分解のノウハウと、普段のマーケットリサーチの際の資料収集のノウハウなど、総動員して読み進めて行くわけですが、


僕自身はどうやって読み進めてるかって言うと、
普段やってることの延長か、どんどんデジタルな文書にしていくわけですわ。
ていうかGoogle Driveにどんどんドキュメントを作っていくんですわ。Google様様ですわ。

まず全体の文章を文字起こしして、わからない単語や、意味不明なつながりを分解して、自分の言葉で換言して、と。

そんで、哲学史の体系みたいなものが僕の頭の中には本当に霞ほどしか入っていないので、どんどんその文書作成の隣でブラウザで調べ事するわけです。Wikipediaとか。

で、単語や、文書内に、どんどんリンクを貼っていくの。



まぁ僕は学者ではないので、特に深い論文とか書かないわけですよ。

だから、別に論文の新しい形態がどうのこうのとか、考える必要ないんだけどね、

論文とか、ハイパーテキストで書けばいいと思うんですよ。


科学系の論文じゃない時に、それを読もうとするとき一番の障害になるのって、そこで使われるタームや概念が、読者側にある程度の水準以上のものが求められてるからじゃないですか。


そういうの、リンク貼れば、全部あとはWeb全体の無責任な情報に、任せられる。


いや、そこの責任の担保のために、きちんと論文の引用のプロトコルが決まってるのは判るんだけど。

本来の学問の本質って、「考える」ことのほうにあるのであって、でしかも、なるべくその参入障壁は低いほうが、学問全体の有用性は上がっていくわけじゃん。

で、間違った理論見たいのが流布するとしても、それは自然淘汰的に、改善されていくわけで。




そんなことを最近考えております。

こんなのもあったよ。

http://tractatus-online.appspot.com

のような試み、もっと積極的に取り入れてもいいかもね、的な。

んちゃ

アボジ


2014年2月17日月曜日

ゴルジ














ちなみにオレの生物のノートはちょーすごい


ブログ内にYoutubeの動画の埋め込みページを入れる方法!

programing


みなさんこんにちは!楽しくブログライフ送ってますか^^




今日は、この記事や、この記事のように、Bloggerでの記事内に、Youtubeの動画や、アマゾンの商品紹介リンクなど、外部サイトでのサービスを埋め込みで挿入する方法をご紹介します!







■ブログの記事って、どうやって表示されているの?

ブログに限らず、僕達がこのようにWebサイトを表示するときに、どのような仕組みで表示されているのでしょうか?
ウェブブラウザ←このように、リンクを表示したり、このように文字を太くさせたり、Webでの表示では、普通のテキストよりも幅広い表現ができるようになっています。

実は、この仕組み、マークアップ言語のうちの一つである、HTML (Hyper Text Markup Language)という、通常のテキストに様々な機能を持たせるための仕組みによって、実現されています!

  最近のWebページだと諸々の都合と、単純な見た目の問題から、
こういう仕組みは利用されることは少なくなっていますが、
一度はこのように動く文字列など、見たことがあるのではないでしょうか?
  
上のような文章が動く仕組みも、HTMLの記述によって改変することができます。




■HTMLってなに?

Webデザイナーを養成するために記事を作成しているわけではないので(笑)、HTMLという仕組みが何なのか、どうやって機能しているのか、についての説明は省きますが、HTMLとは、ウェブブラウザ上に、どのようにページを表示させるのかを決定する約束ごとと言っていいでしょう!

<a href="http:// .....  ">リンク</a> のような書き方をして、HTMLは記述されます。

もっとくわしくHTMLや、Webページの作成の方法等知りたい人は、最近はいろいろとネット上でも勉強するツールが揃ってるので、こちらこちらを見てみるといいでしょう!







■さっそくブログにリンクを埋め込もう!

超特急で説明をしているので、いろいろと説明不足の部分が大量にありますが、コーディング自体のレクチャーではないので、まぁいいとしましょう!

今までに見てきたように、世の中に今の時代広く遍く存在するWEBページというのは、基本的な描写の指定は、すべて「HTML」によって記述されています!


もちろん、Facebookや、Twitterといったページも、このブログも、HTMLによって記述されているのです。

最近のブログサービスは、記事のHTMLを執筆者が直接編集できるようになっていて、我々が使っている、このBloggerのサービスでも、HTMLを直接変更することができるようになっています!





上の画像の青字で説明されているボタンをクリックしてみてください!
すると..





上のようなHTMLの編集画面が表示されます!!

あとでこの画面には戻ってくるので、とりあえずここを押すとHTMLの編集ができるようになるんだな、ってことだけ覚えておいてもらえば大丈夫です♪





■YouTubeのリンクの貼り方!

 


それでは、まずはYouTubeの動画のリンクを埋め込む方法を見てみましょう!
YouTubeの動画を見ていて...








この動画....アツいな....
なんて思った時、それをシェアしてブログの記事にしたくなっちゃうこと、あると思います!


こんなときは..すかさず「Share」のリンクをクリック!

もしかすると、ここまでの流れは、Twitterにリンクをシェアしたりする際に、よくやり慣れた作業かもしれません!でも今回重要なのはここからですね!

「Share」のリンクに遷移すると、このような画面になるかと思います!





そして、ブロガーの[B]のマークをクリック!

そうすると、このようなウィンドウが別ウィンドウで開くかと思います!



「HTMLを編集」のリンクをクリック!して、全選択してコピーするなり、メモ帳のようなものにコピーしてください!

(上の画面からでも、ご覧のように、Bloggerの記事の執筆ができます!動画から記事を作成しようとする場合、こちらのほうが早いかもしれません!)








はい、ここで、さっきまで見てたBloggerのページに戻ってきますよ!

前の記事でも紹介してるように、Blogの執筆の際には複数ブラウザ、複数ウィンドウで行き来するのは当たり前です!(慣れてください笑)

それでは、新規記事を作成するとしましょう!

こんな記事を作成したいとして.......






ここで、もうわかりますね。HTMLの編集画面に移ります!








そうすると....













うまくいきましたね!!

今まで見てきたような手順で、YouTubeの動画の埋め込みは完了します!!


是非試してみてください!!




埋め込みページのリンクは、YouTube以外にも、いろいろなWebサービスで、準備されています。是非自分でも調べてみて、色々と試してみてください!

次回は、お小遣い稼ぎになるのかならぬのか!?Amazonアソシエイトのリンクの貼り付け方をご紹介します!

 (記事作成時間 90分程度)

キリン

2014年2月12日水曜日

いぼじ


「身内の中だけでの面白さ」からの脱却

なんだかみなさん全然記事を投下してくれませんが、そんなことはそっちのけで僕はせっせと色々書いてみようと思うわけよ。

僕個人の方向性の提示によって何らかの"色"がついてしまうことが怖いので、本当は発言の頻度を下げたいんだけど、だからと言って黙る、というのもおかしいよね。みたいな昔の議論が頭をかすめたりしつつ。

とりあえず提言的に、僕がなんでこのブログをやろうと思ったか、の経緯とか、それに対する後付けの動機付けとかを考えてみるよ。
考えるより先に手が動くようになったら、敗北だけど、勝利だよね。



それは帰りの地下鉄の車内のことでした。

なんらかの形で新しくコンテンツを配信するメディアを自分の周りで作りたくて、個人で新しい何らかの配信サービスでもつくろうかな、とか考えていたんだけれども、

恒常的になんかコンテンツ作るのってやっぱり大変だよな〜、なんだかんだでWEB上でもきちんと影響力のあるコンテンツサイトって、やはり更新頻度が高いし、複数人がからんで、キュレーションがきちんとかかってるものだもんな〜、俺自身が面白いと思うものなんてたかがしれてるよ〜
って。思って。

たぶん僕がその性根の通りの真性の引きこもりで、周りにお友達が全くいなかったらあれなんだけど、

俺の周りの人たちみんな面白いこと考えている人たちばっかじゃん!すくなくとも恒常的に面白いこと投下してるかどうかはさておき、みんな話に筋があるし!
と思って。あー、そうか、僕らが飲み会で話すようなこと、そのままコンテンツとして作成してみたらどうなるのかな、って思ったのね。

でもう、その場で勝手に思いつきでLINEでメッセージを送って、今に至るわけだ。



ブログなんて書かなくたって、身近なコミュニティの中でおもしろおかしくお話してればいいじゃない、というのも当然の話。でもこれから考えていくように、本質的にそれとは違う作用がこのシステムには期待ができて、それがとても大事なことだと思うんだ。



SNSでの何気ないやりとりが浸透するに連れて、社会全体が、個人個人に対して、「面白くなければならない」という圧力が生じてると思うのよね。それこそ日本だったらmixi以降の時代において。
このへん、広く解釈すると"発話する"という行為一般に関して考えられる問題で、ちょっとおもしろいかな、とは思うんだけど。

でま、その圧力が哲学的に、思想的に抗うべき対象なのかどうかはさておきさ、「一億総コンテンツメーカー」とも言えるようなこの状況にあって、だったらその技能、使わなきゃ損じゃん、って。

でもさ、すべてのこコミュニケーションがそうであるように、TwitterやLINEでの言動って常に発言の対象を限定的に捉えるでしょ。



それで、一つの別の形として、
・コミュニティの構成要素自体は閉じている(リアルでもコンタクトのある人達)
・発言その他コンテンツ自体は外の世界、社会、WEB全体に広く公開されているし、そこに関しても自覚的にはなる
・TwitterやLINEで行われるような断片的な情報ではなく、もう少し情報の体系化が成されている

というようなかたちのシステムが構成できないか考えたのね。

こうすることによって、コンテンツの投下は常に社会を意識して発信されるが、その完成度についての評価は、身内のなかで行われるようなシステムを実装できないか考えたの。
でしかも、ツイッターや、飲み会での会話、のように一時的なものではなく、情報の蓄積として存在でき、更に情報の相互参照性や、自己参照性、後からの再編集が可能な状態にしたかったんだよね。これによって、より自己、(ここでは我々、だけど)のデータベースの洗練化が可能になるわけじゃん。

ていうかこれは広く思想一般、知識一般、文明一般に言えることだけど、個々の議論は小さなことだったとしても、その一つ一つを架橋していく、自己参照的作用が、思想全体の密度を、純度を、重要度を上げてくんだよね。
学問自体が先行研究、論文の引用によって形成されていることを見ても言わずもがな。おもしろいな、と思えるwebサイト、ブログなんかを見ても顕著だよ。どんどん自己引用して発展していくわけじゃん。この話はシュレーゲルの断片の自己引用についての考察で誰かさんも論文にしていたけれども。





自分がプログラマになったから、というのもあるけど、脳内とか、自分の周りの知識(人脈全体で構成される知識)みたいなものが、今まですごく散逸して、ただ思うがままに放り込んでただけだったな、って。

で、別にそれで問題ないんだけどさ、実はその散逸で断片化された情報って、一見全く無意味なモノに見えるけど、意外と整理して再構成しなおしたらその中にけっこう使える有効な"まとまり"を構成することができるんじゃないの、って。ていうかできるよね。僕も、みんなも、たまに、面白いこと言うんだから。






どっかのだれかの言うように、断片でしか表現できないものって確実にあると思うし、断片化されたものの総体としてしかその人の全容って理解し得ないものだとは思うんだけど、

一方で、きちんとまとまった形で表現される何か、の存在を軽視してはならないと思うのね。(それは広く芸術的創作活動だけではなく、このような、実際の人生生活においてもまさに)


"なんらかのまとまったものを創出すること"っていうのは、自己のアイデンティティを固着させていく作用の一端だと思うし、ともするととても近代的な価値観に囚われてるのかもしれないけれど、ブログを書くのは辛いです。でも述べてるように、以下の二つの理由によって、やっぱり軽視するべきではないと思うんだ。

その1
なんだかんだで世の中は近代的価値で回っていて、どうやってもそれとは付き合わざるを得ない

その2
個人が断片化されることは大いに結構、でも、その断片化の部分集合として、仮想的にまとまったことを創出する、っていう次の段階に移行してくのもありじゃん。

ていう。






今後の提言として、

1.積極的に配信することを意識する
何もないところから絞り出していく作業は辛いものだけど、それでもやる

2.配信されるものの精度や、体系的な完成度は取り敢えず度外視する
むしろ積極的に配信することを重視

3.身内で話すように、話す。
2.の延長でもあるんだけど、僕らが、僕らに対して話したい話、で基本的にはいいと思うんだよね。ぼく、みんなのはなし聞きたいもん。

4.既に配信された情報についても常に再編集、洗練を心がける
これによって、取り敢えず出した情報に関する完成度の担保とする

5.わかりきった諸前提についても述べる
一応広く世間に公開されるものになるわけだから、僕らが門外漢同士で会話するときと同様に、話す話の根本を成す諸前提についてもきちんと説明する努力をするべきだと思うんだよね。もちろん1.のほうが優先度高いんだけど。この5.についてもごく当たり前の諸前提にあたるから、自己言及的。

6.身内だけで生じるプロトコルをなるべく排除する
完全に2.と矛盾するような条件だけど、(これは優先度の設定によって巧妙に論理的矛盾は回避されているのだが)
5.と同様に、社会に対して開かれるものだからこそ、一応頭の片隅に身内間でやりとりされる"暗黙のプロトコル(お約束)"は排除していくべきだと思うんだよね。とまれ、身内間での評価、というシステムの設計上、排除しきれないものだけど。


みたいなところを重視したいな、って思うの。たぶん、番号が若いほど優先度が高いと思うよ。ていうかそうだよ。むしろ、この優先順位を順守徹底するぐらいだと思うよ。






なんだか僕が提供するコンテンツのほとんどは、この記事しかり、文章が多くて、それも自分の中でもきちんとまとまっていない情報を、まとめていく、みたいな作業が多くなるかな、と思うんだけど、こういう、言論ベースじゃなくていいと思うの、アウトプットするコンテンツの形態は。それは、動画かもしれないし、絵かもしれないし、写真かもしれないし、プログラムかもしれないし、音楽かもしれないし、なんでもいいとおもうの。

すくなくともそういう配信するコンテンツが多様化していくにつれて、それに対応するような形でWEBのインターフェイス自体も再構成していくとおもうし(それはもちろん全体を構成しなおすことができるようにサーバー運用を始めてからの話だし、運用者側の[暫定で私なのかもだけど]技術的問題もあるけれど)
全体の構成自体に関するフィードバックも常に行われるべきだと思うの。

あくまでこのなんともいえない緩やかなシステムは、"コンテンツ"に一番のプライオリティがあって、配信されるものにとって一番最適な状態に組織自体が常に自己再構成していくような存在になればいいな、って思うね。

だから、とりあえず、なんでも、いいから、なにか、投下してみてほしい。
全くナンセンスで、無意味なものでもいいから、なんらかのアウトプットをしてみる。

それを、どのように構成していくか、どのような価値を持つものか、は、後で考える。

よくわからないものでも、とりあえず、置いてみる。角度を変えてみる。架橋しようとしてみる。自己参照してみる。
そうするといつか、複雑で、多層的で、"とってもむつかしそうな"総体が出来上がる。





別に僕のひとりよがりで動いてることかもしれないし、何言ってんだこいつ、で構わないんだけど、なにか、やらなきゃ、って。きっと。このままだと、無自覚にただの何でもない市民になっちゃうよ、って。
個人のレベルでは、こういうまとまったものを配信する試みって、今までの人生の中で何度も試みてきたことなんだけど(webに限らず)、社会の断片化、自己の断片化に身を任せて、それもありだな、って、すごく楽な方向に行ってた気がするんだよね。

僕は、今までにも話したことあることだけど、僕自身が考えることも、僕の友達が考えることも(それはこの私が選んだ友達でもあるわけだし)、完成度はさておき、おもしろいと思うの。なにかあるとおもうの。社会全体の平均なんかより、ずっとおもしろい水準にあると思うの。
もしも、そういったものが、なんでもない石ころになって、利用されないとしたら、それは、すごくもったいないことだと思うの。

別にそれでもいいんだけど。ていうかそれは全然受け入れてるんだけど。でもさ、もしかしたらさ、なんか起きるかもしれない、可能性があるわけじゃん、百万分の一の確立で、売り物になるレベルのもの産まれるかもしれないじゃん、だから、大きく失敗しない最低限のラインだけは確保しておいて、最低限の心理的コストで、攻撃しかけようよ。的な。

すくなからず、僕が招集をかけた人々って、これから社会一般に対してコンテンツを投下していこうとする人か、それを生業にしないまでも、(少なくとも口では)そういうこと、できたらいいな、って思う人達なわけじゃん。

いきなり、全社会に対して、影響力のあるコンテンツを投下するのは、難しいかもしれない。ていうか、無理だよ。だし、それを意識しようとしたら、身もすくんで、なにもできなくなるわけじゃない。

だから、ぼくは今までに述べてきたような、システムが必要だと思ったの。
配信する対象と、評価をする対象が、非対称な関係が必要だな、って思ったの。
きっとこれは僕らが望んでいたものだと思うの。

わかんない、そういう意味では、学校ってそういう機能の一部を担ってるのかもしれなくて、僕にはそれができなかったからなのかも知れないけど。
そういう意味では私のひとりよがりかもしれないね。嫌ならけっこう。
僕は僕自身に対する小さな抵抗として、どんなに空回りしても、色々やっていこう、と思ってて、そのうちの一つにすぎないから。

もうすっげーダサい。中学生かよ、ってぐらいダサい。ノリにまかせてこういう文章を投下している事自体がダサい。
でも、そのダッセー態度から、正統進化して、世に出せる水準まで引き上げる作業から逃亡してきたのだから、しかたがない。
ダサいのはがまんする。ていうかダサいの許す自分と、許さない自分を共存させることにする。そういう思考のアウフヘーベンができる僕のこのマインドセットは、ダサくない。

2014年2月11日火曜日

ブログを書くのは辛いです。

ブログを共同執筆しようということにしたのはいいものの、

特に世の中に訴えたいこともなく
情熱をもって社会に普及させたいニッチな業界の動態、というようなものもなく

基本的に一つ一つの情報がその場限りに細分化されてしまったウェブコンテンツを主食に生きる大衆である私達にとって、
学校の課題や、仕事のプレゼンやら、のように、報酬が保証されているものと違う、何かそこに報酬が存在しないものに対して、ある程度のボリュームを持った文章を作成することってかなり苦痛だよね。


僕は今後も思想の話や、IT関連の話や、辛うじて日々恒常的に摂取する情報があるからいいのだけれども、それでもさ、「興味をもち続けること」を実践するのって、かなり面倒なことでもあるよね。

ポストモダンな感覚にとらわれている我々にとって、日々を生きる意味って徹底的に虚無じゃないですか。

ポストモダン的なものの考え方は、少し頭を使って生きていると現在までに起きた社会的事象の結果から自然に帰結するものなのかな、と思うんだけれども、ちょっとその思想に傾倒しすぎてしまうと、「生きることへの意味性の瓦解」に耐えられなくなって、最終的には精神が崩壊する。

現実的には、それが論理的に筋の通る話だったとしても、ポストモダニズムの理論は認識論を提示してくれるだけで、その理論の帰結として考察される、個人の生き方についてはなにも指針を与えてくれない。

でもさ、だから私は関係ない、といって、引きこもるわけにも行かないんだよね。現実的に。

社会は意味性を求める、個人は意味性を失う、この対立はもはや仕方のないことで、世界に対するニヒリズムが国家単位に拡張されるまでは少なくともこの対立と上手いことやりくりしながら生きていくしかないと思うんだよ。

そんでもって僕が思いついた現実的な今のところいちばん簡単な解決策は、"身近な行為を愛すること"なんじゃないかな、と思うんだよね。
愛すべき行為があるならばそれで満たされるし、
行為を愛そう、という志向を持つべきだと思うんだよね。

問題解決によって得られる充足感を得よう、とか
理論的何らかの到達点に達しよう、とか
そういう"高いところから低いところに水が流れる"みたいな心の動きに任せるのではなくて、(それはいつか裏切られること、もしくは一生完結しないことによる苦しみを伴うから)

問題を解決する、という行為
理論的高みに上昇していく、という行為
自体を愛せるように志向の転回を行うべきだと思うんだ。


そんなこんなで私は、そこには何もない、空虚な存在であるのだけれども、ただ惰性でこのキーボードに指を叩きつける、という動作を愛するから、
さしたる旨味もない、無意味な文章を生成し続けるという行為を、愛してみようと思うわけで。

結果的になんらかの形で手を動かし続けた結果として産まれる産物は、それがたとえ"意志の通ったもの"ではないにしても、何らかの切実さが伴うと思うんだよね。

自分の中に残る近代の残骸が、それでもまだ、(また?)大きな物語を紡げるかもしれない、と囁いているような気がするから、心を失って駆動する機械になってしまう前に、私は行為を愛している、という自己規定によって、なんとか生きながらえているだけのような気がしなくもないのだけれども。

稀代の作曲家の話。



僕はこれ、騒動が起こった後で聞きました。




-----------以下は私が無学文盲であることに起因して叙述的記述が頓挫したために、本来記述したかったことの論理的な骨子を指示するための手引書である。
諸兄におかれてはこの手引書を参考に、ゴーストライティングを実践されたい。細部の記述における修辞、レトリックについては、先天的才に恵まれるであろう諸兄の美観に一任する。もちろん、その労役に対する相応の対価は保証されるものである。
なお、以下の手引書、及びそれを元に書かれたあらゆる表現に関しても、その著作権はこの私の有するところであり、兄との間のこの取り交わしについては世間に対して厳重に秘匿とすること。

  • 劇的作用をもたらす音楽を生成することは難しいことではない
    • なぜならば最小構成単位が緊張と弛緩であり、
    • その他の演芸においても実践されているように(ハリウッド映画、ライトノベル、)、基本的にはその構成単位をどのように配置すれば劇的効果がうまれるのかは経験的に蓄積されており、"お約束"を外さなければ単純に成立する
      • それでも映画や小説には、それがうまくいくかどうかについて一定のゆらぎが存在し、そこに専門家の感性によるところ(技術的に習得しただけでは超えられない壁)が存在する
      • なぜなら小説や映画には変数が多いから
    • しかし音楽はそうではない
    • 記譜する、というドグマによって、音楽はカタルシスを生成するためのレシピは既にその楽譜中に現れているのであり
    • また古くはピタゴラスにも見られるように楽音の正当性の根拠は(最小構成単位の”論理性"の根拠は)科学的に保証されている(しようとしている、ということになっている)
      • 命題の成否を真と偽という二項対立によって捉えることによって、論理は機械的強固さをもち、それゆえに科学は手続き的に(それが人の手に依らないものであっても)あらゆる事象が再現可能であることを志向する
    • それ故に音楽は、音楽"理論"としてその芸術的作用の探求とは独立して(並列して)[半]純粋理論学としても成立し得るのである。
    • 科学がそうであったように、<理論的に記述可能になったもの>は、その補集合とは一線を画する二つの特性がある。
      • 一つ目は、ある種その理論自身が自律的に、自身を細密に規定していく志向を持つということ
        • 数学の構成単位たる数理論理学は、いくつかの根源的公理を認めることによって、演繹的にすべて構成することができる。
      • 2つ目は、「理論→再現」のプロセスの再現性が著しく上昇し、理論を習得すればどんな人でも期待する現象を再現することができるようになるということ
        • "いいかんじの文章"を書けるようになるためには、"いいかんじの文章"に数多触れ、そこに暗黙的に了解される"お約束"(劇的効果のレシピ)を会得せねばならない
        • しかし、理論的に構成することが可能になった音楽は、たとえそこに"美的な学習"がなかったとしても、形式的に"いいかんじの音楽"を構成することができる。
          • cf.popsにおけるブルーノート・スケールの利用過程を考えよ
    • 特に、2つ目の要素は、1つ目の要素の特性によって、より補完強化される。
      • 上の二つの特性は、より緩やかな定義を用いれば、音楽以外のの演芸においても存在する。
      • しかし、音楽、特に純粋音楽たるクラシック音楽においては、そのジャンル自体が据えるドグマによって、より上記二つの志向性を強化するのである。
      • 基本的に、クラシック音楽においては、大きく見てもその芸術を"演ずる"にあたり、2つの主体が存在する。
        • 作曲家
        • 演奏者
      • このような区分は、本来はもっと緩やかなものであったはずだが、特に19世紀末以降からこの分業体制は顕著になる。
        • 演奏を行う際、指揮者や演奏者は、”無”から音楽を生成するわけではない。常にそこには先立つものとして「譜面」があるのであり、指揮者や演奏者は、その譜面を"原典"に、なるべく指揮者の意図するところを汲み取ろうと読譜を試みる。
        • 作曲者の側は、自分の作曲の意図したところが指揮者や演奏者の個人的な解釈によって全く別種のものとならぬよう、譜面のその内在に、自己の見た理想が体現されるよう、記譜を行っていく。
      • クラシック音楽においては、この二者間の間の"譜面を通したコミュニケーション(<譜面の精密な記録>⇔<譜面の精密な読解>)"が存在することによって、前述の二つの特性のうち、一つ目の特性、理論自体の自律的細密化がその他の演芸に比べ、顕著なのである。
      • そして、この理論的細密性の高さは、その細かさによって、2つ目の特性、理論からのカタルシスの再現において、その細部に至るまで詳細に記述することが可能になる。
      • このようにして、<<一つ目の特性、理論的細密さが、<演奏と作曲のコミュニケーション>によって自律的に強化され、結果的に2つ目の<理論からのカタルシスの再現>の精度を向上させていく>>という構図によって、音楽(クラシック音楽)は、その他の演芸とは一線を画するものとなるのである。
  • 以上で見てきたような理論的応用の実践が、20世紀初頭からのジャズ音楽の歴史でもあり、ひいては現在の映画音楽やほぼすべての劇伴音楽、商業音楽で行われている。
    • 無名のアニメの劇伴音楽でさえ、そこで用いられる記譜上の理論においては、マーラーのそれと、ドビュッシーのそれと、バルトークのそれと比して大して変わらない。
    • 現在の商業音楽において、<<劇的な効果を良く実現された音楽>>は広く遍く存在しており、現代のベートーヴェン氏の曲を一聴しても、その範疇を逸していないことは明らかであろう。
      • 20世紀のケージをはじめとする「メインストリーム」と現在においては解釈される作曲家たちが、近代的、演繹的構成によって体系化された音楽体系に対するオルタナティブとして積極的に無調音楽、ノイズ音楽、偶然性の音楽等を導入し、評価を得て権威化されたことを契機に、音楽においても芸術のポストモダン化現象が成立する。
      • 体系的な評価付け、権威付けを失った現代の音楽において、すべての音楽は個人の趣向によってのみその価値付けが行われる。
  • わたしが批判したいのは、彼の作曲におけるそういった思想的徹底が深くないのに評価されていたという現実や、ゴーストライティングが行われていた、とかいうことに対してではなく、
  • 本来今見てきたような芸術のポストモダン化は、既に市場においても無自覚に(時に自覚的に)認識されている事象なのにもかかわらず、ここまで苛烈に非難の対象となっていることについてである。
  • 市場原理にさらされる商業音楽の現場においては、簡単なモチーフのみを作曲し、それを十分な技能を持った編曲家がそれをドラマチックに肉付けする、ということはごく当たり前に行われていることであり、現代のベートーヴェン氏とそのゴーストライターの関係もそのように解釈すれば何ら不思議なことではない。
  • 曲自体が普及するために必要だったのは、広く相似な商品が流通する市場において、差異性を生み出すための"神話"だけであったとも言える。
  • 苦境にあえぐクラシック音楽業界が自己発生的に作り上げてしまった虚像その本人が、何を思いこの18年間を過ごし、今どのような心境なのか想像するのは容易いことではない。


とかまぁ硬い話はさておき
普通に新垣さんの曲いいよね。本質的にはすべての問題に無頓着な僕としてはむしろ新垣さんがメインストリームに書いてるこちらの仕事を知れたというだけでおっけー、ってかんじ。

そもそもデータ的にしかコンテンツを受容しようとしない00年代以降の我々において、固有名詞の持つ意味って著しく低いと思っていて、
「ああ別の人が書いていたんですかそうですか。」

ってかんじー

【その2】Bloggerを使ってブログを投稿しよう!

前回は、管理者アカウントから送られてきた招待メールを承認して、Bloggerアカウントを登録するところまでやりました!

今回はいよいよBloggerサービスを使って、ブログを投稿するところまでやってみましょう!



■STEP1 Bloggerのダッシュボードにアクセスしよう!


Bloggerサービスにログインすると、まず上のような画面が表示されるはずです。

・左のブログ名が表示されているリンクを叩くと、「ダッシュボード」と呼ばれる画面に移動します。

・右の鉛筆マークのボタンをクリックしても、すぐに投稿画面に移動することができます!

今回は、とりあえずダッシュボードを使ってみるので、左をクリック。



↑こちらの画面が、Bloggerのダッシュボード画面になります。

これまでに投稿した記事の管理や、各種設定ができる画面です。

左上に表示されている、「新しい投稿」のボタンをクリック!



■STEP2 ブログ記事を投稿してみよう!

新しい投稿」のボタンをクリックすると、↓このような画面が表示されます!



  • まずは左側の説明!
    • 左上の「B」のロゴのボタンをクリックすると、ダッシュボード画面に戻ることができます。
    • そのとなりの、「ブログを表示」の画面をクリックすると、自分のブログ(今回の場合「ウチダマンションsのネタ帳」が別ウィンドウで開きます。
    • それらのボタンの下にある「作成」「HTML」のボタンで、執筆する記事を、リッチテキスト形式で編集していくか、HTMLで直接編集していくか選択することができます。
    • この記事のように、アマゾンのアフィリエイトリンクなどを入れるには、HTML画面からの編集が必須ですね。




  • 続いて右側の説明!
    • 右上の、投稿タイトルのテキストボックスの右隣のボタンで、主に最終的な投稿の管理をします。
    • 「公開」ボタンで、記事を実際のブログに反映させることができます。
    • 「保存」ボタンで、記事をブログには反映せず、ダッシュボードから管理できる状態の、”下書き"にします。
    • 「プレビュー」ボタンは、編集中の記事が実際にブログ上でどう表示されるのかを、確認することができます。(この状態では記事はブログに反映されていません)



基本的には、ここまでの知識でもう記事の投稿はできます!!!!!


「保存」ボタンの下の、「投稿の設定」で、もっと細かい設定ができますが、それはまた次の機会に!

いろいろと機能を触ってみて、是非是非使い方を覚えてみてください!!



まずはこの記事を読んだら、各々初めての記事を投稿してみてね☆

2014年2月10日月曜日

【その1】ブロガーアカウントの登録の仕方!

このブログは、全体の管理者用アカウントと、管理者アカウントから招待されたゲスト執筆者、という形で運営します!

自分のGoogleアカウントから、Bloggerで記事を投稿するまでの過程を全二回に渡ってご紹介します!


■STEP1 管理者アカウントからの招待メールを確認しよう!

管理者アカウント(nendo)から、このような ↓ メールが送られてきているはずです!



「招待に応じる」というリンクボタンをクリックしたら、自動的にGoogleのログインページに移ります。




 ※ここから、Googleアカウントを持っていない場合の手順

 アカウントを持っている場合は、STEP2 に飛ぶ

■Googleアカウントを持っていない場合
Googleのアカウント登録をしないと、Bloggerのアカウントも作成できません!

後で説明しますが、Blogger用のアカウント表示名(ブログでの表示名)は別に登録できるので、 今後の利用も考えて実名で登録しておくのをオススメします!




 ■STEP2 Bloggerアカウントを登録しよう!

Bloggerは、Googleが運営している、Google内のサービスですが、Bloggerサービス内で別のプロフィール、Bloggerプロフィールを登録できます!



Googleアカウントでのログインが完了すると、このように

 Bloggerへの共同投稿者の招待を承認する画面になります!
「紹介メールを承認」ボタンを押して先に進むと、



 このように、プロフィールの選択画面になります!


 前に述べたように、Bloggerは、Googleが運営している、Google内のサービスですが、Bloggerサービス内で別のプロフィール、Bloggerプロフィールを登録できるので、Googleに実名登録している人は、Blogger用にプロフィールを設定し直すとよいでしょう!



Bloggerプロフィールの登録が終わると、
↑ このように、Bloggerサービスの、エントランス画面が表示されます!

(既にBloggerを使っている場合は、「ウチダマンションsのネタ帳」以外にも、現在使っている他のブログサイトが表示されるはず!)




これで、招待メールから、Bloggerサービスへの登録の仕方の説明は終わりです!
 

次回はいよいよブログの記事の投稿を行ってみましょう!

『感性の限界』




読了。

圧倒的に活字に触れてる量は増えているけど、新書を読んでいないな、と思い、かなり適当に書店で手にとった。


本書は、「限界シリーズ」と銘打って、哲学の伝統的分野に則って
理性の限界 』『知性の限界』と出版されてきた著作の三作目にあたるもの。

第一章 行為の限界
第二章 意思の限界
第三章 存在の限界

という大きく分けて3つのトピックに関する話題が、仮想的な複数の学科に渡る参加者による"シンポジウム"という形で展開されていく。

文体としては他愛のない"世間話"の延長、という体で書かれ、非常に読みやすい。

文体の都合もあり、基本的には各分野(哲学、心理学、行動経済学、進化論、生理学etc)での近現代の思想の見本市という感じで、各々の論については専門的に深く掘り下げることはしていない。

しかしながら、それぞれのトピックに対して、学問横断的に---本文中でも学会の政治的理由もあって学科の越境的な融合は図られることはない、とアイロニカルに書かれるが---様々な思想を紹介している点は見新しく、思想に関しての初心者、かつ学問領域を横断して興味がある読者にとっては、各々のトピックに対する現代の各学問領域の知見を知ることができ、手っ取り早いだろう。


第一章 行為の限界
では、"愛とは何か"という大げさなテーマから、主に行動主義宣言以降の心理学の知見を中心に、生理学や、行動経済学の知見を紹介していく。

個人的にはヒューリスティック処理システムが認知過程の基本システムとして研究されている、という話が新しかった。現象学。

第二章 意思の限界
デカルトに始まる近代哲学における最大のトピックでもある「自由意思」に対する考え方を、主にドーキンスの思想を参照する形で進化論的視点から議論が展開していく。

第三章 存在の限界
第二章を受ける形で、実存の終着たる"死"を巡って、ここでもドーキンスのミーム理論や、実存主義の対立、はたまた軍事論争に至るまで、多岐にわたって触れる。



僕にとっては全章にわたってほぼ新規な情報となる話がなかったので、すっ飛ばしで3時間ぐらいで読めてしまったのだが、逆に今哲学に回顧しようとしているこの時期に、今まで蓄えてきた知識のアタマの中の所在を確認できた、という意味ではよかった。
前著二冊についても目を通してみたい。

あとがきにある、2011年以降の時代に生きる哲学者としての、科学主義に対する素朴な警鐘は印象深い。


前述の通り多分野、学際研究の現代の知見の見本市、という感じなので、今後各々の議論について深めたい読者や、思考の見取り図をはっきりするには、最適かと。