2014年2月11日火曜日

ブログを書くのは辛いです。

ブログを共同執筆しようということにしたのはいいものの、

特に世の中に訴えたいこともなく
情熱をもって社会に普及させたいニッチな業界の動態、というようなものもなく

基本的に一つ一つの情報がその場限りに細分化されてしまったウェブコンテンツを主食に生きる大衆である私達にとって、
学校の課題や、仕事のプレゼンやら、のように、報酬が保証されているものと違う、何かそこに報酬が存在しないものに対して、ある程度のボリュームを持った文章を作成することってかなり苦痛だよね。


僕は今後も思想の話や、IT関連の話や、辛うじて日々恒常的に摂取する情報があるからいいのだけれども、それでもさ、「興味をもち続けること」を実践するのって、かなり面倒なことでもあるよね。

ポストモダンな感覚にとらわれている我々にとって、日々を生きる意味って徹底的に虚無じゃないですか。

ポストモダン的なものの考え方は、少し頭を使って生きていると現在までに起きた社会的事象の結果から自然に帰結するものなのかな、と思うんだけれども、ちょっとその思想に傾倒しすぎてしまうと、「生きることへの意味性の瓦解」に耐えられなくなって、最終的には精神が崩壊する。

現実的には、それが論理的に筋の通る話だったとしても、ポストモダニズムの理論は認識論を提示してくれるだけで、その理論の帰結として考察される、個人の生き方についてはなにも指針を与えてくれない。

でもさ、だから私は関係ない、といって、引きこもるわけにも行かないんだよね。現実的に。

社会は意味性を求める、個人は意味性を失う、この対立はもはや仕方のないことで、世界に対するニヒリズムが国家単位に拡張されるまでは少なくともこの対立と上手いことやりくりしながら生きていくしかないと思うんだよ。

そんでもって僕が思いついた現実的な今のところいちばん簡単な解決策は、"身近な行為を愛すること"なんじゃないかな、と思うんだよね。
愛すべき行為があるならばそれで満たされるし、
行為を愛そう、という志向を持つべきだと思うんだよね。

問題解決によって得られる充足感を得よう、とか
理論的何らかの到達点に達しよう、とか
そういう"高いところから低いところに水が流れる"みたいな心の動きに任せるのではなくて、(それはいつか裏切られること、もしくは一生完結しないことによる苦しみを伴うから)

問題を解決する、という行為
理論的高みに上昇していく、という行為
自体を愛せるように志向の転回を行うべきだと思うんだ。


そんなこんなで私は、そこには何もない、空虚な存在であるのだけれども、ただ惰性でこのキーボードに指を叩きつける、という動作を愛するから、
さしたる旨味もない、無意味な文章を生成し続けるという行為を、愛してみようと思うわけで。

結果的になんらかの形で手を動かし続けた結果として産まれる産物は、それがたとえ"意志の通ったもの"ではないにしても、何らかの切実さが伴うと思うんだよね。

自分の中に残る近代の残骸が、それでもまだ、(また?)大きな物語を紡げるかもしれない、と囁いているような気がするから、心を失って駆動する機械になってしまう前に、私は行為を愛している、という自己規定によって、なんとか生きながらえているだけのような気がしなくもないのだけれども。

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