2014年2月11日火曜日

稀代の作曲家の話。



僕はこれ、騒動が起こった後で聞きました。




-----------以下は私が無学文盲であることに起因して叙述的記述が頓挫したために、本来記述したかったことの論理的な骨子を指示するための手引書である。
諸兄におかれてはこの手引書を参考に、ゴーストライティングを実践されたい。細部の記述における修辞、レトリックについては、先天的才に恵まれるであろう諸兄の美観に一任する。もちろん、その労役に対する相応の対価は保証されるものである。
なお、以下の手引書、及びそれを元に書かれたあらゆる表現に関しても、その著作権はこの私の有するところであり、兄との間のこの取り交わしについては世間に対して厳重に秘匿とすること。

  • 劇的作用をもたらす音楽を生成することは難しいことではない
    • なぜならば最小構成単位が緊張と弛緩であり、
    • その他の演芸においても実践されているように(ハリウッド映画、ライトノベル、)、基本的にはその構成単位をどのように配置すれば劇的効果がうまれるのかは経験的に蓄積されており、"お約束"を外さなければ単純に成立する
      • それでも映画や小説には、それがうまくいくかどうかについて一定のゆらぎが存在し、そこに専門家の感性によるところ(技術的に習得しただけでは超えられない壁)が存在する
      • なぜなら小説や映画には変数が多いから
    • しかし音楽はそうではない
    • 記譜する、というドグマによって、音楽はカタルシスを生成するためのレシピは既にその楽譜中に現れているのであり
    • また古くはピタゴラスにも見られるように楽音の正当性の根拠は(最小構成単位の”論理性"の根拠は)科学的に保証されている(しようとしている、ということになっている)
      • 命題の成否を真と偽という二項対立によって捉えることによって、論理は機械的強固さをもち、それゆえに科学は手続き的に(それが人の手に依らないものであっても)あらゆる事象が再現可能であることを志向する
    • それ故に音楽は、音楽"理論"としてその芸術的作用の探求とは独立して(並列して)[半]純粋理論学としても成立し得るのである。
    • 科学がそうであったように、<理論的に記述可能になったもの>は、その補集合とは一線を画する二つの特性がある。
      • 一つ目は、ある種その理論自身が自律的に、自身を細密に規定していく志向を持つということ
        • 数学の構成単位たる数理論理学は、いくつかの根源的公理を認めることによって、演繹的にすべて構成することができる。
      • 2つ目は、「理論→再現」のプロセスの再現性が著しく上昇し、理論を習得すればどんな人でも期待する現象を再現することができるようになるということ
        • "いいかんじの文章"を書けるようになるためには、"いいかんじの文章"に数多触れ、そこに暗黙的に了解される"お約束"(劇的効果のレシピ)を会得せねばならない
        • しかし、理論的に構成することが可能になった音楽は、たとえそこに"美的な学習"がなかったとしても、形式的に"いいかんじの音楽"を構成することができる。
          • cf.popsにおけるブルーノート・スケールの利用過程を考えよ
    • 特に、2つ目の要素は、1つ目の要素の特性によって、より補完強化される。
      • 上の二つの特性は、より緩やかな定義を用いれば、音楽以外のの演芸においても存在する。
      • しかし、音楽、特に純粋音楽たるクラシック音楽においては、そのジャンル自体が据えるドグマによって、より上記二つの志向性を強化するのである。
      • 基本的に、クラシック音楽においては、大きく見てもその芸術を"演ずる"にあたり、2つの主体が存在する。
        • 作曲家
        • 演奏者
      • このような区分は、本来はもっと緩やかなものであったはずだが、特に19世紀末以降からこの分業体制は顕著になる。
        • 演奏を行う際、指揮者や演奏者は、”無”から音楽を生成するわけではない。常にそこには先立つものとして「譜面」があるのであり、指揮者や演奏者は、その譜面を"原典"に、なるべく指揮者の意図するところを汲み取ろうと読譜を試みる。
        • 作曲者の側は、自分の作曲の意図したところが指揮者や演奏者の個人的な解釈によって全く別種のものとならぬよう、譜面のその内在に、自己の見た理想が体現されるよう、記譜を行っていく。
      • クラシック音楽においては、この二者間の間の"譜面を通したコミュニケーション(<譜面の精密な記録>⇔<譜面の精密な読解>)"が存在することによって、前述の二つの特性のうち、一つ目の特性、理論自体の自律的細密化がその他の演芸に比べ、顕著なのである。
      • そして、この理論的細密性の高さは、その細かさによって、2つ目の特性、理論からのカタルシスの再現において、その細部に至るまで詳細に記述することが可能になる。
      • このようにして、<<一つ目の特性、理論的細密さが、<演奏と作曲のコミュニケーション>によって自律的に強化され、結果的に2つ目の<理論からのカタルシスの再現>の精度を向上させていく>>という構図によって、音楽(クラシック音楽)は、その他の演芸とは一線を画するものとなるのである。
  • 以上で見てきたような理論的応用の実践が、20世紀初頭からのジャズ音楽の歴史でもあり、ひいては現在の映画音楽やほぼすべての劇伴音楽、商業音楽で行われている。
    • 無名のアニメの劇伴音楽でさえ、そこで用いられる記譜上の理論においては、マーラーのそれと、ドビュッシーのそれと、バルトークのそれと比して大して変わらない。
    • 現在の商業音楽において、<<劇的な効果を良く実現された音楽>>は広く遍く存在しており、現代のベートーヴェン氏の曲を一聴しても、その範疇を逸していないことは明らかであろう。
      • 20世紀のケージをはじめとする「メインストリーム」と現在においては解釈される作曲家たちが、近代的、演繹的構成によって体系化された音楽体系に対するオルタナティブとして積極的に無調音楽、ノイズ音楽、偶然性の音楽等を導入し、評価を得て権威化されたことを契機に、音楽においても芸術のポストモダン化現象が成立する。
      • 体系的な評価付け、権威付けを失った現代の音楽において、すべての音楽は個人の趣向によってのみその価値付けが行われる。
  • わたしが批判したいのは、彼の作曲におけるそういった思想的徹底が深くないのに評価されていたという現実や、ゴーストライティングが行われていた、とかいうことに対してではなく、
  • 本来今見てきたような芸術のポストモダン化は、既に市場においても無自覚に(時に自覚的に)認識されている事象なのにもかかわらず、ここまで苛烈に非難の対象となっていることについてである。
  • 市場原理にさらされる商業音楽の現場においては、簡単なモチーフのみを作曲し、それを十分な技能を持った編曲家がそれをドラマチックに肉付けする、ということはごく当たり前に行われていることであり、現代のベートーヴェン氏とそのゴーストライターの関係もそのように解釈すれば何ら不思議なことではない。
  • 曲自体が普及するために必要だったのは、広く相似な商品が流通する市場において、差異性を生み出すための"神話"だけであったとも言える。
  • 苦境にあえぐクラシック音楽業界が自己発生的に作り上げてしまった虚像その本人が、何を思いこの18年間を過ごし、今どのような心境なのか想像するのは容易いことではない。


とかまぁ硬い話はさておき
普通に新垣さんの曲いいよね。本質的にはすべての問題に無頓着な僕としてはむしろ新垣さんがメインストリームに書いてるこちらの仕事を知れたというだけでおっけー、ってかんじ。

そもそもデータ的にしかコンテンツを受容しようとしない00年代以降の我々において、固有名詞の持つ意味って著しく低いと思っていて、
「ああ別の人が書いていたんですかそうですか。」

ってかんじー

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